河合 敦の日本史の新常識 第21回

ノジュール読者世代が「歴史」を教科書で学んだ時代から、はや数十年。
じつは歴史の教科書は、新事実や新解釈をもとに定期的に改訂されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
〝新しい日本史〟の〝新しい常識〟について、歴史家・河合敦さんが解説します。

進化する大奥研究

大奥の知られざる姿とは?


イラスト:太田大輔

時々、誰でも知っているのに、日本史の教科書すべてには載っていない用語がある。その一つが〝大奥〞である。『日本史B』(通史)の教科書は7種類あるが、うち2冊には掲載されていない。小説や演劇、テレビや映画の格好の題材で、しかも江戸時代の政治や社会にも影響を与えたのに、何とも不思議である。

大奥は、江戸城の中にある徳川将軍の妻子が住む区画だが、広義には大奥は江戸城に三つ(本丸、西の丸、二の丸)ある。本丸の大奥には将軍の妻子が、西の丸の大奥には将軍の跡継ぎ(世嗣〈せいし〉)とその妻子、あるいは大御所(将軍を引退した人)とその妻子が住んだ。二の丸の大奥には、将軍の生母や前将軍の正妻や側室などが生活していた。ただ、一般的に大奥といった場合、本丸の大奥をさす。

将軍が住む本丸御殿は、表・奥(中奥)・大奥という空間に区分され、大奥は御殿全体の約六割の広さを占めた。「表」は儀式や諸大名との対面をおこなう空間。「奥」は将軍の執務室であり、同時に日常の生活空間。その先に大奥がひかえている。ただ、奥(中奥)と大奥のあいだは銅瓦塀〈どうがわらべい〉で分断され、出入り口は御鈴廊下〈おすずろうか〉(渡り廊下)のみで、しかも通常は頑丈な杉戸で閉ざされていた。大奥の内部は「御殿向〈ごてんむき〉」、「長局〈ながつぼね〉」、「御広敷〈おひろしき〉」に分かれている。御殿向は将軍と御台所〈みだいどころ〉(正室)が生活する場。長局は、奥女中が住むプライベート空間。広敷は、大奥の事務や警備にあたる役人がつめた。男子禁制のイメージが強い大奥だが、広敷役人はみな男姓。ただ、御殿向とは御錠口〈おじょうぐち〉で、長局とは七ッ口で厳重に仕切られており、男の役人は入ることができなかった。

大奥で働く女中の人数は正確にはわからないし、時期によっても違うが、おおよそ千人から三千人程度と考えられている。

奥女中は、厳密な階級があった。最高位は上﨟年寄〈じょうろうとしより〉で公家出身者。年寄がこれに続くが、彼女たちが万事、大奥を取り仕切っていた。次いで御客応答〈あしらい〉、御中臈〈おちゅうろう〉、御錠口、表使など多くの役職があったが、御三之間から以下は将軍にお目見えできないことになっていた。 

奥女中は、それぞれ将軍付、御台所付、世嗣付など、御世話する担当者が決まっていて、一番格が高いのは将軍付で、給与もよかったし数も多かった。

お目見え以下は、町人や百姓の娘から採用されることも多かった。また、上級の奥女中になると、個人的に雇用したり面倒を見る「部屋方(部屋子)」が数名から十数名いたとされる。

大奥では、行儀や芸事が学べたうえ、短期間でも奉公すると箔が付いて良縁に恵まれたので、金銭的に余裕がある商人や豪農は、競って自分の娘たちを大奥へ上げた。奥女中はお目見え以下だと比較的自由に宿下がりが許され、結婚ができたのだ。大奥の経費は幕府収入のおよそ1割を占めたとされ、御年寄クラスになると、莫大な米と金、さらに町屋敷が与えられ貸家経営まで認められていた。また、30年勤続した者には屋敷が下賜され、年金がもらえた。

将軍のお手がついた奥女中が政治上のおねだりができない仕組みは、5代将軍綱吉の頃から整備された。床入りの際、別の女性が一晩中寝ないで睦言に聞き耳を立て、翌朝、どんなことを話したかを上司に報告することになっていた。とはいえ、大奥が相当な政治力を持っていたのは事実であり、幕政に口をはさむことも少なくなかった。

近年、寛永寺の将軍家墓所の一部(現在は谷中霊園内。徳川将軍家御裏方霊廟と呼ぶ)の改葬に伴い、24名の大奥女性の墓所の発掘調査がおこなわれ報告書が発刊された。それを読むと、浄観院(12代将軍家慶の御台所)と澄心院(将軍家定の御台所)の棺内部は大量の朱(硫化第二水銀)が充填されていたという。遺体の防腐処理、不老不死への祈りなどがその理由だとされる。また、浄観院は目が悪かったらしく眼鏡が副葬品として出土したが、さらに驚くのは大量の爪が出てきたことだ。爪を切ったらすべて保管していたらしいのだ。爪という肉体の一部を使って呪いをかけられるのを避けるためだったと推測される。

また、澄心院の身長は低いという伝承があったが、実際に骨を計測してみたところ、130㎝程度だった。骨に変形が見られ、20代後半で病死していることから何らかの病だったようだ。棺からは樒〈しきみ〉の葉が多く出土したが、葉に黒いシミのようなものがあり、なんと調べてみたら「南無阿弥陀仏」と記されていたのだ。筆跡がバラバラなことから、遺体の臭い消しとして使われる葉に大奥の女中たちは冥福を祈って記したようだ。

近年、地方の文書などから大奥研究が進んでおり、許可があれば大奥の見学も認められたことなどが判明してきた。今後の成果が楽しみである。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院修了後、日本史講師として教鞭を執るかたわら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『世界一受けたい授業』『歴史探偵』出演のほか、著書に『徳川15代将軍解体新書』(ポプラ社)、『25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛いかすり傷」偉人しくじり図鑑』(秀和システム)など。

(ノジュール2022年6月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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