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東西高低差を歩く関東編 第32回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

~鎌倉(前編)~

高低差に守られた
武家政権初の都


イラスト:牧野伊三夫

中世から近世まで、日本列島を政治的に主導した武家政権の最初の都となった鎌倉。その都市構造は地形的な高低差を活かして建設された要塞のようでもあった。武士の棟梁・源頼朝が本拠地とした鎌倉を、この連載の主旨にそって2回に分けて紹介する。

鎌倉の立地は南側が海に面し、東・西・北と三方が丘陵に囲まれた特徴ある立地ゆえ「天然の要害」の地と紹介されることがある。たしかに木々が生い茂る丘陵や山間部が城壁の代わりを成し、外部からの侵入を拒むだろうし、攻めにくい地勢といえる。そして南側の海、由比ケ浜海岸は遠浅の砂浜なので、艦船の接岸が難しく、水軍の上陸にも困難が付きまとう。源頼朝と結んだ摂政で京の公家、九条兼実は、日記『玉葉〈ぎょくよう〉』の中で、鎌倉の町について「鎌倉城」という表現をしている。建設当初にさかのぼると、囲む山の稜線の地肌は剝き出しに削平され、木々は取り払われ、まさに長い城壁に囲まれた城郭都市の構えであったらしい。

いっぽう鎌倉中心市街地は比較的平坦で、東西約2.5㎞・南北約1.8㎞と、奈良や京都に比べれば狭隘で閉鎖的な土地柄である。武家政権の都は、同時代の中世ヨーロッパの都市のような城郭に守られたコンパクトシティだったともいえる。

三方を囲む丘陵は、軍事的には有利であるが、政治上の要地として多くの人口を受容し、物資を運び込むためには交通の妨げになる。そこで築かれたのが「切通〈きりどおし〉」と呼ばれる鎌倉独特の往還路である。「切通」とは、谷の奥を登りつめ、稜線を挟んで向かい合う谷の先端部分(谷頭〈こくとう〉)を結ぶために、山頂部を開削して掘り下げた峠道のことで、いくつかは史蹟として保存され今でも徒歩での通行が可能。切通によって交通の便を高めると、要害としてのメリットが薄れてしまうため、切岸・平場(曲輪)・土塁・空堀などの軍事的付帯施設が設けられた。防衛拠点でもあった切通は「鎌倉七口」と称されるが、その呼び名は江戸時代に観光名所として名付けられたものだった。

さて、鎌倉の地形を語る上で忘れてはならないのが「谷戸〈やと〉」とよばれる独特な地形。「切通」はこの谷戸を利用して造られたものであるが、凹凸地図からも市街地を取り囲む丘陵の裾部に入り込んだ谷戸の多さが際立つ。谷戸の横断面はV字状で、東京都心で見られるU字型の「スリバチ状の谷」とは異なる形状で、奥へ行くほど急斜面の細長い特性を持っている。

谷戸は古くから、山から流れ出る沢水や湧水を利用し谷戸田が設けられた。今でも清らかな水が流れる谷戸も多い。

時代が下って鎌倉時代から室町時代にかけては、武士の館が谷戸の閉鎖性・防御性を活かし多く設けられた。さらには円覚寺や建長寺など、谷戸を境域として建立された寺院も多数みられる。東京都内の寺院も、山を背に谷戸に立地するものが多くみられるところが共通し、湧水を活かした庭園があるところも同じ空間構成だ。けれども鎌倉の谷戸は奥へと長いのが特徴なので、閉鎖的かつ比較的広いスペースを活かし、修行の場として独自の世界観をつくり出した寺院も多い。北鎌倉の円覚寺では、最盛期に1000人に近い修行僧が境内に住み込んでいたとされるほどだ。谷戸の数だけ寺院がある、そんな宗教都市としての側面も鎌倉にはある。

高低差に守られた城郭都市としての鎌倉と、高低差によって閉じられた世界を醸成させた寺院群。両者はまさにフラクタル(自己相似形)の関係にあり、広さは違えど、どちらも「谷地形」の閉鎖的構造を活かす設計思想があったところが興味深い。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。
地形を手掛かりに町を歩く専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。
著書に『東京スリバチ地形散歩』(宝島者)や『東京スリバチの達人/北編・南編』(昭文社)などがある。
都市を読み解くツールとして『東京23区凸凹地図』(昭文社)の制作にも関わった。

(ノジュール2022年6月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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