50代からの旅と暮らし発見マガジン

定期購読のお申し込みはフリーダイヤルまで 0120-26-4747

河合 敦の日本史の新常識 第22回

ノジュール読者世代が「歴史」を教科書で学んだ時代から、はや数十年。
じつは歴史の教科書は、新事実や新解釈をもとに定期的に改訂されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
〝新しい日本史〟の〝新しい常識〟について、歴史家・河合敦さんが解説します。

江戸幕府も止められなかった

人気稼業・女髪結とは?


イラスト:太田大輔

小学校の社会の教科書には、江戸幕府の3大改革は載っていない。徳川吉宗も松平定信も水野忠邦も登場しないのだ。これを聞いて驚かれる方も多いと思うが、政治史の分量は近年激減し、代わって増えたのが文化史。とはいえ、すべての文化を盛り込むことは難しい。仏教、古典芸能、文学、芸術作品は多く載るが、意外に庶民の暮らしは記述が少ない。とくにファッションはほとんど出てこない。そこで今回は、女髪結〈おんなかみゆい〉を取り上げてみたい。

女性が髪を結うようになったのは、江戸時代に入ってからのこと。それまでは垂らし髪が一般的だった。江戸時代初期は自分で結髪〈けっぱつ〉したり、友人や知人で結いあったりしていたが、次第に金を出してオシャレな髪型に仕上げてもらうようになった。こうして職業としての女髪結が成立してくるわけだ。

最初の女髪結は、山下金作という男だとされる。安永年間(1772〜81)、上方歌舞伎の女形だった金作が江戸深川に移り住み、芝居でつける鬘〈かつら〉を結い上げていた。これを目にした深川の芸妓から頼まれて銭200文で結髪したところ、見事な仕上がりとなったので客が殺到、金作は女専門の髪結として生活するようになったという。

その後、甚吉という金作の弟子が半額の100文で髪結を始め、その弟子たちもさらに半額程度で仕事を請け負ったので、手頃な値段の女髪結は大流行。すると女も髪結業に参入し、女髪結はやがて女性の職業となった。

ところが寛政の改革を始めた老中松平定信は、女髪結を禁止したのである。「近頃、女たちは、遊女や歌舞伎の女形風に髪を結い立て華美になっている。しかも自分で髪を結わないというではないか。だから女髪結は一切禁止する。それを生業とする娘たちは職業を変え、仕立屋や洗濯などをして生計を立てなさい」 質素倹約をとなえる幕府にとって、庶民が華美に流れる責任の一端は女髪結にあると判断したのだ。ただ、江戸時代の不思議さは、ほとぼりが冷めたら法律は平気で破られることである。文化文政時代(19世紀前半)になると風俗は緩み、再び女髪結が現れる。ところが、老中水野忠邦による天保の改革が始まると、女髪結は廃業を命じられた。しかも違反したら厳罰処分となった。女髪結は100日間の入牢、その両親や夫、さらに家主も30日間の手てぐさり鎖の刑とした。さらにその客も30日の手鎖、客の親や夫は罰金3貫文となった。

これについて、あの曲亭馬琴〈きょくていばきん〉も「天保12年春ごろから女髪結が禁止されたが、それでも止まないので、今年になって女髪結だけでなくその客も召し捕られ、手鎖を掛けられることになった。この仕事は、文化年間から始まって次第に増え、貧しい裏長屋の女房や娘までもが女髪結に髪を結わせるようになった。当初は客が髪を結うための油を出し、100文の代金をとっていたが、最近は女髪結が増え、安いのになると24文で髪を結ってくれる」と記している。

安永年間に200文だったのが、曲亭馬琴の天保年間には24文。10分の1に値下がりしたわけだ。たとえば1文10円から20円だとすると、250円から500円ぐらいだろうか。

でも、このような摘発をおこなったにもかかわらず、一向に女髪結は姿を消さなかった。そこで江戸の町奉行所は、嘉永6年(1853)5月3日、町の名主たちに「女髪結之儀ニ付御教諭」という通達を発した。「かつて女髪結は厳禁されていたが、密かに調べたところ1400人あまりもいることがわかった。そのままにしておけないのですぐに捕まえるべきだが、このたびは特別な計らいで吟味の沙汰にはおよばない。とはいえ、そのまま放置できないし、女髪結がいると女子の風儀が奢侈に流れてしまう。ただ、貧しさゆえに髪結渡世を営んでいるのだから、急に仕事を取り上げてしまうと困る者もあるだろう。そこで今後は、毎月初旬に町の家主たちを集め、町内に女髪結がいないかを問いただし、いたら説諭を加えて商売替えをするよう説得させよ。言うことを聞かなければ、捕まえて連れてこい」

なんと、当時まだ江戸市中に1400人も女髪結がいたという。つまり幕府の禁令も、美しい髪で表を歩きたいという女性の願いには敵わなかったのである。結局、以降は処罰を断念し、彼女たちを説得して商売替えをさせるという方法がとられるようになった。しかし明治になっても消滅せず、ますます盛んになって高給取りとなる。俗に「女髪結の亭主」という言葉があるように、女髪結の夫は楽な暮らしができたといわれる。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院修了後、日本史講師として教鞭を執るかたわら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『号外!日本史スクープ砲』『歴史探偵』出演のほか、著書に『徳川15代将軍解体新書』(ポプラ社)、『お札に登場した偉人たち21人』(あすなろ書房)など。

(ノジュール2022年7月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
ご注文はこちら