河合 敦の日本史の新常識 第26回

ノジュール読者世代が「歴史」を教科書で学んだ時代から、はや数十年。
じつは歴史の教科書は、新事実や新解釈をもとに定期的に改訂されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
〝新しい日本史〟の〝新しい常識〟について、歴史家・河合敦さんが解説します。

オシャレ? 既婚者の目印?

昔の人がお歯黒をしていた理由とは!?


イラスト:太田大輔

日本史の教科書にはお化粧に関する歴史はまったく登場しない。じつは口紅や白おしろい粉を用いる習慣は古代からある一方、現代の日本から完全に消えてしまった化粧がある。それが、歯を黒く染める「お歯黒」だ。

お歯黒に使用する液体は、発酵した酒や食べ物でつくった酢に鉄片などを入れて酸化させ、タンニンを含むふし(ヌルデの葉茎にできる虫こぶ)の粉末をまぜたもの。これを何度も歯に塗って黒く染めるのだ。

その起源だが、『魏志』倭人伝の「黒歯国」という記述や古墳時代の人骨にお歯黒の痕跡が見られることから、弥生時代から古墳時代にかけて定着したと考えられている。しかし、隣国の朝鮮や中国には見られない。東南アジアやアフリカの一部にあるが、東南アジアから日本に伝来したかどうかはわかっていない。

平安貴族の間で流行したお歯黒は、鎌倉時代になると下級武士にまで一気に広まり、鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が下級武士のお歯黒を禁じるほどになった。戦国時代になると、男性は公家や大名、上級武士に限られ、お歯黒は女性の風習になっていく。ちなみに『太閤記』には、小田原平定に出立する豊臣秀吉の「出で立ち、作り髭にかねくろなり」とある。「かねくろ」とはお歯黒のことで、秀吉はこの記念すべき日にお歯黒をして出陣したことがわかる。

ともあれ江戸時代になると、お歯黒は既婚女性専用の化粧となった。「黒」という色は不変なので、「貞女二夫に見えず」という貞操のしるしとされたという説が有力である。このほか、歯を黒くすると歯並びの悪さを隠せるとか、虫歯による歯の変色をごまかせるといった説がある。黒光りする歯が女性を色っぽく見せるという話もあるが、さすがにこれは承服しがたい。

それは、江戸時代に来日した外国人の記録を見てもわかる。

スウェーデン人医師のC・P・ツュンべリーは、「既婚女性が未婚者とはっきり区別できるのは、歯を黒くしているからである。日本人の好みでは黒い歯はまさしく美しいものとされている。だが、大半の国なら家から夫が逃げだしてしまうしろものだ。大きな口にぎらぎらした黒い歯が見えるのは、少なくとも私にとっては醜く不快なものであった」(C・P・ツュンべリー著、高橋文訳『江戸参府随行記』東洋文庫)と述べている。

ペリー一行の公式記録『ペルリ提督日本遠征記(四)』(土屋喬雄・玉城肇訳岩波文庫)にも、「ひどく腐蝕された歯ぐきに生えてゐる一列の黒い歯が見えた。日本の既婚婦人だけが、歯を染める特権をもつてをり、」「齦根は腐つて赤い色と生活力を失ふ。この習慣は、夫婦間の幸福を導くことが殆どないと考ふべきであらうし、又当然、求婚時代の夢中なときに接吻をしてしまはなければならないことも推測されるだらう」とある。

ともあれ、結婚すると江戸時代の女性は髪型を丸髷〈まるまげ〉にし、眉を剃ってお歯黒をつけた。妻になる女性に初めてお歯黒をつける人を鉄漿親〈かねおや〉と呼んだ。別名を「筆親」というのは、筆で歯を染めあげたからだろう。これにより見た目は別人のように変わる。思想家の三浦梅園〈ばいえん〉は、著書『鉄漿訓〈てっしょうくん〉』のなかで「すなわち新歯黒して、眉をはらひ袖をとめ、童の形を人の妻たるべく、人の母たるべきに、改むる」と記しており、少女から妻や母に変身させるのが目的だったと考えている。

ただ、江戸後期になると、お歯黒で歯を黒く染めたあと、上の前歯二本を磨いて真っ白にする「愛敬歯」というオシャレが流行したという。明治になると、前歯二本に金歯を入れて「愛敬歯」と称するようになった。そう、明治時代になってもお歯黒の風習はすぐに消えなかったのである。新政府が野蛮な風習として禁止したにも関わらずだ。

明治12年刊行の『小学女子作文捷径〈しょうけい〉』(大島東陽著)という模範文例書には「鉄漿つけ悦〈よろこび〉の文」という項目があり、初めてお歯黒を染めた女性に対する祝い文とその返礼文が掲載されている。

ただ、大正時代になるとお歯黒の女性は急激に減り、ほとんど見られなくなった。そんな中で、ユニークな調査がある。「お歯黒の概念および実例報告」(『岩手医科大学歯学雑誌』所収)に、1987年時点でお歯黒を続けている93歳の女性の例が紹介されている。彼女は3日に1度歯を染めているが、残存する歯が26本もあり虫歯がない。しかも歯石もなく80代になっても歯肉が引き締まり口腔内は良好な状態で、90歳を過ぎても食べ物をしっかり噛めるという。このため、「お歯黒の歯および歯周組織への有効性が推測できる」(前掲書)と結論づけている。

わずか一例だが、お歯黒は虫歯や歯槽膿漏を予防する効果もあったようだ。だからといって、健康のためにお歯黒をしたい現代人はさすがにいないだろう。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院終了後、日本史講師として教鞭を執るかたわら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『世界一受けたい授業』『歴史探偵』出演のほか、著書に『徳川15代将軍解体新書』(ポプラ社)、『江戸500藩全解剖一関ヶ原の戦いから徳川幕府、そして廃藩置県まで』(朝日新書)など。

(ノジュール2022年11月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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