河合 敦の日本史の新常識 第28回

ノジュール読者世代が「歴史」を教科書で学んだ時代から、はや数十年。
じつは歴史の教科書は、新事実や新解釈をもとに定期的に改訂されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
〝新しい日本史〟の〝新しい常識〟について、歴史家・河合敦さんが解説します。

あの逸話は作り話だった!?

最新研究の「家康像」とは――?


イラスト:太田大輔

今年のNHKの大河ドラマ『どうする家康』の主人公は、いうまでもなく江戸幕府をつくった徳川家康。きっと2023年は、家康という人物が大きくクローズアップされるので、ノジュール読者も旅行先で家康関連の史跡を目にすることも多くなるだろう。

この徳川家康、いったいどんな人間なのだろうか。今回はそのあたりに焦点を当てていこう。 みなさんも三天下人の性格を例えた時鳥〈ほととぎす〉の歌はご存じだろう。

織田信長は「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」、豊臣秀吉は「鳴かぬなら鳴かせてみせよう時鳥」、それに対して家康は、「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」。晩年にようやく天下を手にしたものだから、とても気の長い性格だと考えたのだろう。ただ、この歌は江戸時代後期になって登場するもので、戦国時代の人びとがそう思っていたわけではないし、家康が気長だという確かな記録は存在しない。

さて、家康の人柄を語るうえで欠かせないのは、彼の遺言(東照公御遺訓)である。「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久〈ちょうきゅう〉の基〈もとい〉、怒りは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり」

これを座右の銘とされている読者もいるかもしれない。人質から人生をスタートさせ、さまざまな苦労や危機を乗り越えて天下を取った苦労人、そんな家康にふさわしい言葉といえよう。

だが、これも家康作ではなく、徳川光圀(水戸黄門)の言葉を参考に、ある幕臣が創作したものなのだ。それを明治になって高橋泥舟〈でいしゅう〉が一般に広めたことが判明している。ちなみに最後の将軍徳川慶喜は、これが家康の言葉だと信じていたという。

次の逸話も有名である。元亀3年(1573)12月、武田信玄の大軍が家康のいる浜松城に近づいてきた。このとき家康は三方ヶ原〈みかたがはら〉で戦うが、武田軍に大敗北を喫し、恐怖のあまり脱糞してしまい、どうにか城に逃げ戻ってきた。家臣のなかには、「殿が糞を垂れて戻ってきた」と大笑いする者もいた。けれど家康は、すぐに絵師を呼んで自分の恐怖にゆがんだ姿を描かせ、これを常に手元に置き、慢心したときの戒めとしたという。これがいわゆる顰〈しかみ〉像である。

けれど、脱糞の逸話は創作の可能性が高く、顰像に至っては三方ヶ原合戦の際に描かせたものではないうえ、そもそも家康本人の肖像なのかどうかもわからないのだという。

このように、近年の歴史研究で、家康の逸話の多くが、後世の作り話だとわかってきたのだ。

一方、当時の手紙や日記など信頼できる文献から事実だと判明していることもある。

家康が律儀だということは複数の書簡に記されており、誠実でまじめな人柄であったのは間違いない。さらに倹約や質素を好み、贅沢を嫌ったことや、鷹狩を趣味として晩年まで原野を駆け回っていたことも確かだ。こうした生活習慣が長生きにつながったのだろう。また、時代劇や映画で家康がよく薬研〈やげん〉で薬をつくっている場面が登場するが、これも事実。若い頃から薬学に興味をもち、自分で薬品を調合し、「万病丹〈まんびょうたん〉」「銀液丹〈ぎんえきたん〉」といった名を付けて常用し、健康維持に努めていた。孫の家光が重病にかかったときも、自家薬を与えて回復させている。

このように、薬学についてはプロ顔負けの高度な知識を有していたわけだが、それが結局、命取りになった。

元和2年(1616)、家康は鷹狩に行った先で急に動けなくなってしまう。質素を好む家康には珍しく、鯛の天ぷらを食べ過ぎ、体調を崩したのだ。食中毒の説もあるが、記録に残っている症状から判断して胃癌の可能性が高いようだ。

以後、病に伏せった家康だったが、侍医の片山宗哲が用意した薬をほとんど口にしようとしなかった。かわりに「腹の中に固まりがあるから、これは寄生虫だ」と判断し、自分で調合した虫下しの薬ばかり飲んでいたのだ。

このままでは死んでしまうと宗哲は心配し、2代将軍秀忠から家康を説得してもらおうとした。これを知った家康は、「お前の薬などいらぬ。もう二度と俺の前に現れんでよい」と怒り、宗哲を信濃国諏訪の高島へと流罪にしてしまったのだ。なんとも可哀想な侍医である。

家康は自分が調合した薬をあれこれ試したものの、病は快方へ向かわず、最後は飲んだ薬さえはき出す始末で、とうとう息絶えてしまった。享年は75歳。当時としては長生きだったといえるが、自分の知識を過信して寿命を縮めてしまったわけだ。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院終了後、日本史講師として教鞭を執るかたわら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『号外!日本史スクープ砲』『歴史探偵』出演のほか、著書に『30分でまるっとわかる!なるほど徳川家康』(永岡書店)、『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)など。

(ノジュール2023年1月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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