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江戸城下の名残を探して

船上から江戸城の石垣と水路の痕跡を辿る

写真・文=OFFICE-SANGA(山河宗太、大村優季、不来方次郎、大村仁)

南に東京湾を配し、武蔵野台地端部という立地は、城塞都市にふさわしい天然の要害でもありました。その江戸を支えた水脈と、当時の足跡を船上から辿ってみましょう。

江戸に張り巡らされた堀と
河川を利用した水運
現代のようにさまざまな交通手段が発達していない江戸時代は、船による水上交通が重要な役割を担っていた。江戸の町は、江戸城の外堀や市中に築かれた堀とともに、隅田川などの自然河川を巧みに利用した水上交通のほか、江戸湊から全国各地の主要港を結ぶ海洋航路ネットワークが構築されていた。

町並みを歩き当時の史跡を辿れば、そこには江戸時代の空気が残されている。しかし、水上から見渡す光景には、また違った江戸の姿が見えてくるのだ。

今回は水の流れとともに息づく江戸の姿に触れるべく、日本橋の船着き場からクルーズ船に乗る。

この神田川クルーズは、日本橋から出発して日本橋川を遡上し、後楽橋から神田川、隅田川を下って日本橋へと戻ってくる、所要時間90分の周遊コースである。

クルーズ船が出航する日本橋は、慶長8年(1603)徳川家康によって架橋された。その翌年、五街道(東海道、中山道、奥州街道、日光街道、甲州街道)の起点として定められた。当時は木橋で、現在の橋に架け替えられたのは明治44年(1911)のことだった。

ルネサンス様式石造二連アーチ橋の日本橋をくぐり抜け、クルーズ船はゆっくりと滑りだした。間もなく、眼前には常磐橋の右岸側に石垣が見えてくる。3代将軍家光〜4代将軍家綱の時代、寛永17年(1640)から20年ほどかけ、明暦の大火で逃げ遅れた人々の避難路としての側面も持つ両国橋(「三都涼之図東都両国ばし夏景色」(五雲亭貞秀)国立国会図書館蔵)加賀藩と佐土原〈さどわら〉藩の普請によって築造された石垣がこれである。また、ここに桝形石垣の常磐橋御門があったともいう。江戸城の外堀の一部だった日本橋川には常磐橋門以外に、神田橋門、一ツ橋門、雉子橋門などがあった。現在の常磐橋は明治10年(1877)に架橋されたもので、その左岸側には明治29年(1896)に建造された日本銀行本店を見ることもできる。その敷地は、江戸幕府金座当主の後藤庄三郎の屋敷跡で、日銀の建物は東京駅の設計で知られる辰野金吾による。常磐橋をくぐり抜けた直後に下流側を望むと、江戸時代の精緻な石垣と明治時代の重厚な建築物が見事に調和した風景が広がっていた。

常磐橋からJR線の鉄橋をくぐり抜け、やがて神田橋が見えてくる。神田橋は、大名が毎年1月15日に将軍への挨拶のため、江戸城に登城するルートにあたる。神田橋を過ぎると錦橋、一ツ橋と続く。進行方向左手には江戸時代につくられた石垣が続く。この辺りは、反時計回りに江戸城外郭を護る外堀と内堀が最も接近する場所で、わずか30mほどの距離しかない。

(ノジュール2023年3月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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