東西高低差を歩く関西編 第41回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

伏見

長方形と正方形が並ぶ都市構造


イラスト:牧野伊三夫

地図とは面白いもので、グラフィカルで多種多様な地図記号を眺めるだけで、訪れたことのない場所でもなんとなく概要がわかる。これは地図好きが思いを同じくするところだろう。一方で地図から受けた印象が、現地では裏切られる場所もある。豊臣秀吉が晩年に建設した都市伏見がまさにそれである。

伏見は京都市南部(伏見区)に位置しており、豊臣秀吉が建設した伏見城と城下町を歴史的な母胎としている。また断層(桃山断層)の隆起によって、西から東に向かって大きく傾斜する地形環境も地理的な特徴である。

ところが地図を見ると、また違った印象を伏見からは受ける。それは道路の幾何学的な配置である。市街地の西側には「長方形」、東側には「正方形」のブロックが整然と並んでいるのだ。伏見市街地は傾斜地形に立地する反面で、地図の印象だけから判断すれば、整然とした都市計画をあたかも平坦地に実施したように見えてしまう。

地形と地図。傾斜と整然。矛盾するような両者の関係だが、伏見というまちの都市計画にとっては至極当然というか、むしろ必然的な関係であったらしい。

16世紀後半以降、日本列島各地で新たに出現した都市が近世城下町である。東京、大阪、名古屋、仙台、福岡など、日本国内の主要都市の大半はこの例に含まれるが、特徴は近世という時代に特有の社会意識を都市構造に反映させたことだ。①武士や町人、僧侶といった社会集団(身分)ごとに居住区を分ける。②統治、商業、交通などの機能を集約した一元的な都市計画を実施する。③全ての都市要素は城郭を中心に配置される、等々。これら近世城下町の特徴は、中世社会では貴き賤せん問わず住民が雑多に居住し(貴賤混住)、ルーツを別にした都市(交通都市、宗教都市、王権都市など)が複数併存していた様相とはずいぶん異なっている。都市の歴史において、中世と近世のあいだには明確な一線が引けるのだ。

では誰がこの線を引いたのか。それがおそらく、近世社会を幕開けた豊臣秀吉である。すなわち、彼が集大成として建設した都市こそが伏見城下町なのだ。

改めて、伏見の都市構造を地図から見てみよう。市街地西側の長方形ブロックは、商業を担当する社会集団「町人」の居住区として設定されたエリアだった。中世以降に道路両側に展開する商業地域が各地で生まれたが、この道路に応じた都市構造を単純化すると長方形となる。伏見の長方形ブロックは、中世社会で成立していた商業都市を母胎として採用されたと考えられるだろう。

一方、伏見市街地の東側に並ぶ正方形ブロックはおおよそ一辺260mを基準とした区画であり、住民層は軍事・統治を担当する社会集団「武士・大名」だった。これらは正方形の街路形状を基調とした、古代都市平安京の都市構造(条坊制)をもとにしたと考えてよい。

伏見市街地の東西に並ぶ長方形と正方形のブロック構造は、町人と武士・大名という別性格の社会集団に応じて、近世城下町以前に各地で生まれていた別系譜の都市を並列させたものと評価できるかもしれない。ひどく単純化すれば、伏見は中世都市(長方形プラン)と古代都市(正方形プラン)を合併・統合させた都市構造だった。結果、長方形と正方形を実現するために道路は東西南北で直線化し、幾何学的な配置となったというわけだ。

さらに伏見の特徴はそれだけではない。長方形ブロック(町人)と正方形ブロック(武士・大名)は単に並置されただけではなく、両者は地形高低差の上下に配置されているのだ。市街地中央を貫く桃山断層の断層崖をはさんで、断層下側には長方形ブロック、断層上側には正方形ブロックが置かれて、これはそのまま両者の階層差を表現したものだろう。

古代と中世を超克するかのように、近世城下町の整然とした都市計画を、高低差の大きな傾斜地形の上に展開すること。豊臣秀吉の構想では矛盾でもなく必然だったにちがいない。地図の幾何学性と地形高低差の現地感覚を念頭に、改めて伏見を歩いてみよう。

梅林秀行 〈うめばやし ひでゆき〉
京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大学非常勤講師。
高低差をはじめ、まちなみや人びとの集合離散など、さまざまな視点からランドスケープを読み解く。「まちが居場所に」をモットーに、歩いていきたいと考えている。
NHKのテレビ番組『ブラタモリ』では節目の回をはじめ、関西を舞台にした回に多く出演。著書に『京都の凸凹を歩く』など。

(ノジュール2023年3月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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