東西高低差を歩く関東編 第44回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

高低差が育む住宅地ブランド

城南五山


イラスト:牧野伊三夫

起伏豊かな東京・山の手、その凹凸地形のなかでも凸地はしばしば「○○山」と称される。住宅地などの場合、日当たりや風通しのよさがセールスポイントになるため、好んでその呼称が用いられることが多い。その代表例が武蔵野台地南東端に位置する、都内屈指の高級住宅地「城南五山〈じょうなんござん〉」であろう。そのエリアは淀橋〈よどばし〉面に分類される洪積台地ゆえ、深い谷が密に入り込み、凹凸地形が奏でる絶景スポットも多い。

城南五山とは花房山・池田山・島津山・八ツ山・御殿山を指すが、戦後になって付けられた呼称。花房山の名は明治末に花房子爵〈はなぶさししゃく〉が屋敷を構えたことに由来し、江戸時代には播磨国三日月藩森家の上屋敷があった。池田山一帯は備前国岡山藩池田家の下屋敷地だった土地で、箱根土地が分譲住宅地として宅地開発した。美智子上皇后の実家跡「ねむの木の庭」もこの丘にある。島津山は仙台藩伊達家の領地が、明治になってから島津公爵の邸宅地になったことから付けられた名。そして御殿山は江戸時代に将軍家の品川御殿が設けられていたからで、JR山手線の駅名にも採用された大崎という地名は、この舌状台地を指すとする一説がある。唯一、名の由来に定説がないのが八ツ山で、村の古名「谷山村」が転化したとするのが有力だ。

さて、五山と呼ばれるのは、スリバチ状の谷間や窪地が台地を分断して、台地が山のように見えるため。スリバチがあってこそ「山」なのだ。だから本稿では、この界隈の谷間や窪地も紹介したい。

花房山はふたつの谷筋が南北に刻まれ、それぞれ西之谷・烏窪とよばれていた。花房山と池田山の間にあるのが清水谷で、現在は首都高速2号線のルートとして活用されている。池田山の北側を縁取る谷間は篠之谷と呼ばれ、その支谷の凹地形を利用したのが池田山公園だ。

城南五山の名が使われる以前、それも江戸時代・元禄のころから谷の名は存在していた。それは検地帳に記されたもので、江戸期は水田として利用されていたからである。検地帳とは村の石高を管理するための基本台帳で、それぞれの谷間が米の生産地として重要視されていたことを物語っている。

篠之谷を越えた先が島津山で、現在は清泉女子大学のキャンパスなどに利用されている。台地の形状が振袖を思わせるため袖ヶ崎とも称された。島津山と八ツ山を隔てる谷は道場谷と呼ばれ、やはり検地帳に記された呼称。谷間に建立された本立寺〈ほんりゅうじ〉・寿昌寺〈じゅしょうじ〉に修行の場があったことに由来するとされる。八ツ山の南端を占めるのが、三菱グループの迎賓施設・開東閣〈かいとうかく〉。そしてその南に位置するのが御殿山で、淀橋台の南東端となる。

このエリアで注目すべきは検地帳に記された谷間の他に、不思議な形状をした凹地が点在していること。いずれも人工的なスリバチ地形で、江戸時代末期に御台場築造のための土取場だった場所である。中でも大規模かつ階段状に縁取られた窪地が八ツ山の土取場。元は今治藩(幕末には川越藩)の下屋敷だった場所だが、谷山村の名で呼ばれていたことから、自然の谷間があった土地だったと想像している。また、東京マリオットホテルの御殿山庭園に利用されている窪地もかつての土取場。谷底に豊かな水を湛え、スリバチ地形を活かした緑豊かな回遊式庭園となっている。そして一番ユニークなのが品川神社裏の窪地。品川神社のある場所はもともと御殿山と地続きで、こここそが淀橋台の最東端であった。土取りによって品川神社のある土地が、島のように取り残された地形となっている。

影が光を際立てるように、五山を彩る谷間の存在も忘れてはならない。谷間や窪地があるからこそ、山が際立ち、町の表情は豊かになるのだ。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。
地形を手掛かりに町の歴史を解き明かす専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。
著書に『東京「スリバチ」地形散歩』(宝島社)や『東京スリバチの達人/分水嶺東京北部編・南部編』(昭文社)などがある。2022年にはイースト新書Qより『東京スリバチ街歩き』を刊行。
専門は建築設計・インテリア設計。

(ノジュール2023年6月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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