河合 敦の日本史の新常識 第38回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

旅行の許されない江戸時代、

温泉旅行だけは特別に許されていた!?


イラスト:太田大輔

前回、戦国大名が愛した温泉の話をしたが、江戸時代になっても大名たちの温泉愛は変わらなかった。例えば、参勤交代の際に東海道中の宿場に近い熱海や箱根には多くの大名が立ち寄った。ただ、大名が温泉に行くには、江戸幕府に対して湯治の申請を出して許可を得る必要があった。また、大勢の供を連れて行くことになるので、その出費も馬鹿にならない。盛岡藩主の南部重直〈なんぶしげなお〉や薩摩藩主の島津光久〈しまづみつひさ〉など、温泉好きの殿様もいたが、多くの大名は気軽に温泉に出かけるというわけにはいかなかった。

そこで、国元の温泉に殿様専用の湯殿をつくる大名が少なくなかった。ユニークなのは、藩の収入アップを目的に温泉を開発する大名家があったことだ。

そのひとつが、越後高田藩の榊原氏である。徳川四天王の榊原康政〈さかきばらやすまさ〉を祖とする家柄で、姫路十五万石を支配していたが、贅沢三昧な暮らしや遊女を身請けしたことが露見し、藩主・政岑〈まさみね〉は処罰され、越後高田へ移封された。藩の表高は十五万石で姫路時代と同じだったが、実収はわずか五万石に過ぎない。しかも、たびたび冷害や大地震などの自然災害に見舞われ、年貢収入が滞りがちになっていた。結果、高田藩の財政は悪化し、借財が増えていった。そこで文化七年(1810)に藩主となった政令〈まさのり〉は、藩政改革を実施した。そんな改革のひとつが、赤倉温泉(新潟県)の開発だった。

妙高山の山麓・地獄谷から湧出する源泉を、なんと、五百本の大竹を組み合わせた管で約7㎞離れた場所まで引き込み、温泉場を造るという壮大な計画を立てたのだ。

温泉開発のきっかけは、藩士の松本斧次郎〈まつもとおのじろう〉を介して庄屋の中嶋源八〈なかじまげんぱち〉が政令に温泉場の創設を願い出たことにあった。当時、泉源である妙高山は、修験者の道場として宝蔵院が管理し、一般の入山は認められていなかった。

しかし藩主の政令は、宝蔵院にかけあって温泉買い入れ金や迷惑料千百両を支払うことで温泉の開発を認めさせたのである。総費用は三千両以上。藩庁もこの事業に二千俵の米を貸与した。こうして赤倉温泉は文化十三年(1816)に誕生した。その後、続々と温泉宿もできていった。

温泉場は北国街道二俣宿からわずか3㎞のところにあり、善光寺参りや京都の寺社参詣、お伊勢参りの通過地点だった。周知のように19世紀には庶民も寺社参詣や湯治を名目として長旅をするようになり、北国街道を往復する旅人は爆発的に増えていた。このあたりのブームも見込んだ上での開発だったのだろう。開設当初から赤倉温泉には年間1万人以上の湯治客が殺到し、すぐに損益は相殺され、大きな利益があがったといわれる。

江戸時代は原則として、庶民の旅行は認められていなかった。しかし、例外がふたつあった。信仰のための寺社参詣、そして病気療養のための湯治だけは許可されていた。

特に江戸後半から庶民も温泉旅行を楽しむようになった。良い温泉は口コミで広がるだけでなく、相撲の番付に見立てた『諸国温泉功能鑑』といった温泉ランキング表が多く発行された。熱海、箱根、草津、那須、有馬、城崎、道後など、昔から知られている温泉が番付の上位を占めている。一覧表には江戸から温泉までの里程(距離)に加え、「切りきず(傷)、うちみ(打ち身) 相州湯河原之湯」とか「かつけ(脚気)、せんき(疝気) 庄内田川の湯」といったようにその効能が記されていた。各温泉場も積極的に効能をアピールしたのだった。

いずれにせよ、現代のように温泉旅館の善し悪しや周辺の娯楽施設や観光スポットよりも、どのような病気にその温泉が効くのかが番付の重要なポイントだったのだ。

医学が発達していないので、慢性的な病に苦しみ救いを求めてやって来る人びとが現代よりずっと多かったのである。そうした湯治患者のための温泉入門書や温泉ガイドも多数出版された。そこには、温泉入浴の方法やマナーなどが詳しく書かれている。湯治は七日間を一廻りと呼び、三廻り(21日間)が一般的な湯治期間であった。最初の数日は身体を慣らすために身体にお湯をかけるだけ、その後、湯に浸かるが、無理をしてはいけない。体調や体力に応じて少しずつ時間や回数を増やしていく。欲張って長湯すると死んでしまうとか、房事や飲酒を控えるべきだと書かれているものもある。

ただ、時代とともに温泉場には「湯女」や「飯炊き女」という女性を置く旅館が増え、土産物店や料理屋、矢場などができ、観光スポットをつくって周遊コースをもうけたり、網猟体験を実施したりと一大娯楽施設のようになっていったのである。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『号外!日本史スクープ砲』出演のほか、著書に『幕末・明治 偉人たちの「定年後」』(扶桑社)、『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』(朝日新書)

(ノジュール2023年11月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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