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金栗四三の執念から生まれた

前代未聞の駅伝競走

文=牧岡幸代(編集室りっか) 写真=月間陸上競技

「世界に通用する選手を育てる」という金栗四三の意気込みから始まった箱根駅伝。
黎明期には、興奮した巡査が一緒に走ってしまうなど、仰天ハプニングが続出しました。

アメリカ横断のために
箱根を走る!
金栗四三は、2019年の大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺ばなし〜」でも描かれた、日本人初のオリンピアンだ。明治45年(1912)開催のストックホルムオリンピックのマラソン国内予選で、世界記録を27分も縮めるあっと驚く大記録を出し、大きな期待を背負ってストックホルム五輪に出場するも、日射病であえなく途中棄権。次のベルリン大会への出場を熱望していたが、第一次世界大戦のため大会は開催されず。それでも金栗の情熱はとどまるところを知らず、生涯をマラソンの普及と選手の強化に捧げることを決心していた――。

ある日、金栗と彼の後輩にあたる学生ら2人が、小学校の運動会の審判員を務めた帰りの列車で一緒になった。3人の若者はマラソンの話で大いに盛り上がり、走ってアメリカ大陸を横断するという壮大な構想が生まれた。サンフランシスコからニューヨークまでおよそ4500㎞を駅伝で走り切る大会だ。「出場選手の選抜をするために、まずは国内で大会を開こう。難所であるロッキー山脈を走れる選手が必要だから、箱根がいいだろう」ということになった。

当時、東京五大新聞のひとつだった報知新聞が大会のスポンサーとなり、金栗たちと報知新聞は大会実現のために協議を重ねた。当初は東京-水戸、東京-日光のコースも検討されたが、結局、東京-箱根のコースに決まったのは、金栗の東京高等師範学校の後輩で、小田原中学(現・小田原高校)の教師をしていた長距離走者、渋谷寿光〈しぶやとしみつ〉の綿密な調査があったからだ。

中継地点をどこに設置するか、海風を受けて走る際の影響はどうか、小田原〜箱根間の勾配は実際にはどの程度なのかなど、不明な点や決めなければならない点は多かったが、渋谷は東京から箱根までを歩き、巻き尺で計測。本番では箱根を走るのは日没後になることから、地元の中学生に松明や提灯を持たせて選手の伴走をさせる計画まで整えたという。

こうして記念すべき第1回大会(大会名は「四大校駅伝競走」)は、大正9年(1920)2月14日午後1時に東京・有楽町の報知新聞社前をスタートした。『箱根駅伝70年史』(関東学生陸上競技連盟)によれば、肩から腰に襷〈たすき〉をかけた4人の選手は金栗審判の発声によって勇躍スタートしたという。

第1回大会には、東京高等師範学校、明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学の4校が参加することになった。金栗は熱心に主要大学に声をかけ参加を誘ったのだが、10人の長距離走者を揃えるのは難しかったのだ。

午後1時スタートだったため、往路箱根ではすっかり日が暮れ、雪も降り始めるという悪コンディション。街灯もない真っ暗な山道で、前述したように渋谷の教え子である小田原中学徒歩部の生徒が、松明を持って各ランナーの伴走をした。また、地元青年団が道の要所に立ち、選手がつまずかないよう、道を間違えないよう松明を灯し続けた。山犬やイノシシを威嚇するため、猟銃で空砲を撃つこともした。

あまりに壮大な夢だったのか、アメリカ横断は実現しなかったが、こうして箱根駅伝の1ページ目が歴史に記された。

(ノジュール2023年12月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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