河合 敦の日本史の新常識 第41回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

〝くだらない〟の由来にもなった!?

日本の歴史に欠かせない
お酒のはなし


イラスト:太田大輔

前回、日本酒の話をしたが、今回も続きを話していこう。

室町幕府の三代将軍・足利義満〈あしかがよしみつ〉は初めて酒税をかけた人物といわれるが、自身は大酒飲みで、側室の藤原慶子〈ふじわらのよしこ〉が死んだ翌日も悲しまずに大酒を飲むなど、たびたび酒宴を開いていた。そうした体質が隔世遺伝したのか、孫の義量〈よしかず〉は十歳頃から酒の味を覚え、酒無しではいられなくなった。義量の父である義持〈よしもち〉(四代将軍)は手紙で義量をいさめ、近臣たちに禁酒を誓う起請文〈きしょうもん〉を書かせた。周囲の者が飲まなければ、義量も酒をやめると思ったのだろう。けれど義量は、将軍になって二年目に飲み過ぎで体を壊して十九歳の若さで死んでしまった。仕方なく義持が将軍に返り咲くが、その義持も三年後に死去。しかも義持は後継者を決めずに逝ってしまった。そこで重臣は、義持の弟四人のなかからくじ引きで将軍を決めた。当たりくじを引いた青蓮院〈しょうれんいん〉の義円〈ぎえん〉は還俗して六代将軍・義教〈よしのり〉となったが、独裁政治をはじめ家来を次々に粛清していった。

嘉吉元年(1441)、将軍の義教は播磨〈はりま〉(現在の兵庫県)の守護大名・赤松満祐〈あかまつみつすけ〉の屋敷に招かれたが、酒宴の最中に殺害された。満祐は義教に処罰されることを恐れ、その前に殺してしまおうと考えたのだという。義教の子で八代将軍・義政〈よしまさ〉も、庶民が飢饉に苦しんだり、応仁の乱で都が焦土になったりしていても、平気で豪勢な酒宴を頻繁に開いていた。こうした無能な為政者のために応仁の乱がおこり、戦国時代に突入した。

戦国大名の上杉謙信は、こよなく酒を愛したといわれ、謙信が用いた馬上盃〈ばじょうはい〉や大盃〈たいはい〉も現存する。天正六年(1578)、謙信は関東遠征の陣触〈じんぶれ〉を発したが、出発の二日前、厠〈かわや〉で昏倒して数日後に没した。脳卒中だったと思われる。「四十九年一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」これは、あらかじめ用意していた謙信の辞世の偈(言葉)。酒を愛した謙信らしい。なお、2006年から上越市では「越後・謙信SAKEまつり」と称する謙信の名を冠した大々的な日本酒のイベントが開かれている。

織田信長は酒を好まなかったと宣教師のルイス・フロイスは語るが、そんな信長の酒宴に供されたのが生首であった。信長は、朝倉義景〈あさくらよしかげ〉を討つため越前に赴いたとき、妹婿の北近江の浅あざ井い長なが政まさに裏切られ、浅井・朝倉勢に挟撃された。以後三年間、信長は彼等の抵抗に悩まされたが、ようやく天正元年(1573)に滅ぼした。その戦勝祝いの宴で、信長は長政や義景の生首に金銀をまぶして漆で固め、それを肴に酒を飲んだのだ。なんともえげつない酒である。

日本の手工業は、農村家内工業から問屋制家内工業へ、さらに工場制手工業(マニュファクチュア)という発達段階をとる。通常、工場に労働者を集めて分業と協業による生産をおこなう工場制手工業は、19世紀(江戸後期)に現れてくる。だが、なぜか酒造業だけは、江戸初期から摂津〈せっつ〉の伊丹〈いたみ〉・池田・灘〈なだ〉などでマニュファクチュア経営が見られた。つまり酒造業は、最先端の手工業だったのだ。

百万都市・江戸では、上方の酒が上等なものとして愛された。上方から江戸に下ってくるので、上方の酒を「下〈くだ〉り酒」と呼んだ。逆に江戸に下ってこない商品はたいしたものではない。そこから、まじめに取り合う価値もないことを「くだらない」と呼ぶようになったという。

享保十五年(1730)、江戸の酒店組合は大坂と江戸を往復する南海路に、迅速に酒を運ぶ樽廻船〈たるかいせん〉を百隻ほど走らせ、年間百万樽を運んだ。このため「下り酒」が急増した。

老中の松平定信は、これでは金銀が上方へ流れてしまうと危惧し、下り酒の移入量を制限。同時に、関東の酒屋に米を貸し与えて酒の増産を命じ、「御免関東上酒〈ごめんかんとうじょうしゅ〉販売所」を設立させ、大々的に商いさせた。けれど幕末まで関東の酒は、下り酒にかなうことはなかった。

なお幕府は、凶作や米価高騰の際には、米を原料とすることから、酒造をたびたび制限した。そんななか、文化十四年(1817)三月二十三日、両国柳橋〈りょうごくやなぎばし〉の万屋八郎兵衛〈よろずやはちろべえ〉の貸座敷で、大酒・大食い大会が開かれた。酒の部では、芝口の鯉屋利兵衛〈こいやりへえ〉三十歳が三升入の大盃で六杯半を飲み干し、その場に倒れ込んだものの、目を覚ますと、茶碗で水を十七杯も飲んだという。最高齢の参加者は七十三歳の天堀屋七右衛門〈あまほりやしちえもん〉で、この人は五升入の丼鉢で一杯半を飲み干したが、帰宅の途中で土手で倒れ、そのまま朝まで意識を失っていたという。なんとも馬鹿げた大会である。下戸〈げこ〉の私には、酒飲みの気持ちはまったく理解できない。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『号外!日本史スクープ砲』出演のほか、著書に『平安の文豪』(ポプラ新書)

(ノジュール2024年2月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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