東西高低差を歩く関東編 第52回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

高低差から読み解く流路の謎

神田上水


イラスト:牧野伊三夫

江戸時代初期に開削され、神田・日本橋をはじめとした江戸城下・海岸沿いの下町に飲み水を供給した神田上水。その存在は広く知られてはいるものの、創成の経過については不明な点が多い。今回は土地の高低差に着目してその成立ちについて考察をめぐらせたい。

神田上水は徳川家康が江戸入国する天正18年(1590)以前に整備を命じた小石川上水を、再整備したものだとされている。その小石川上水の実態、すなわち工事区間や完工期日、工事方法等については、まったくもって不明ではあるが、12月号の本稿では地形からヒントを得た「仮説」を試みた。それは日比谷入江に注いでいた谷端川(小石川)の水を堰によって水位を上げ、家康入国以前からあった集落・江戸(微高地)へ配水したインフラ施設だったというもの。

17世紀に入ると、日比谷入江や海沿いの低湿地の埋立てなどの都市開発によって、江戸市中の人口は急激に増加し、飲料水の確保が急務になっていた。臨海都市・江戸では井戸を掘っても塩分が混ざった水しか得られず、小規模な小石川上水では水需要を賄えなくなっていた。

そこで注目されたのが、江戸の遥か西方、武蔵野の原野から流れてくる神田川の清らかな水。神田川は井の頭池の湧水を主水源とし、善福寺川や妙正寺川を合わせて江戸城下へ至る自然河川ゆえ、水質も良好で水量も小石川と比べて格段に豊富だった。

神田上水は石堰(大洗堰)を築く(文京区関口の地名はこの堰に由来するとされる)ことで水位を上げ、台地のへりをつたって神田方面まで自然流下で水を届けた。この大洗堰が造られた年代ははっきりと分からないのだが、堀越正雄氏は『井戸と水道の話』(1981年/論創社刊)の中で、慶長年間以後(1596〜1614)だと推測している。小日向台下を経た上水は、広大な水戸藩邸(現在の後楽園付近一帯)に入り、藩邸の東から出て伏樋となって南に折れ、掛樋(水道橋)によって神田川を渡っていた。ちなみに本郷台地の先端部を横切る神田川放水路の開削は元和6年(1620)から始まる天下普請による工事とされ、神田上水通水後ということになる。給水方法は随所に桝を設けて水を汲み取る仕組みで、桝の数は3660余りを数えたという。武家は禄高、町方は家の間口に応じて水道料が徴収された。

凸凹地形図からも分かるよう、神田上水は水道橋に至るまでに2か所で谷間を越える必要があった。一つ目の谷は関口からも程近い音羽谷、そして二つ目が谷端川(小石川)の流れていた広大な谷間だ。人工的な上水道と自然河川が、如何に立体交差していたのか興味は尽きない。特に注目したいのは小石川との交差部で、水戸藩邸だった土地は明治になってからは小石川砲兵工廠として使われていたので、交差部の記録が地図に記されている。そこには小石川が崖下を直線状に流れ、掛樋によって神田上水は小石川の上空を横断している様子が描かれている。

ところでこの交差部周辺は、12月号で紹介した「小石川ダム」と想像した微高地にあたる。ここからは高低差マニアとして、神田上水の創成過程を妄想してみたい。その妄想とは水路交差部より先は、元々あった小石川上水を再利用し、神田上水として通水させたのではないか?

というものだ。つまり小石川ダムの土手上を流れることで谷間を横断し、既設の小石川上水の水路に関口で取水した水の流れを接続したという仮説だ。工期と建設費を大幅に削減できるプランゆえ、合理性と納得感があろう。

この仮説では、水戸藩邸の一部は小石川ダムを整地した土地ということになり、神田川(放水路)に架かっていた水道橋も、放水路開削工事のために止むを得ず水道橋になったことになる。史料の存在しない時代の謎を、地形を手掛かりに考証することほど面白いものはない。土地の高低差をテーマにした「知」の冒険そのものである。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。
地形を手掛かりに町の歴史を解き明かす専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。
著書に『東京「スリバチ」地形散歩』(宝島社)や『東京スリバチの達人/分水嶺東京北部編・南部編』(昭文社)などがある。2022年にはイースト新書Qより『東京スリバチ街歩き』を刊行。
専門は建築設計・インテリア設計。

(ノジュール2024年2月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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