東西高低差を歩く関東編 第54回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

溜池・桜川

城南を潤した上水施設


イラスト:牧野伊三夫

江戸時代初期の上水施設として『御府内備考〈ごふないびこう〉巻之六 御曲輪内之四 上水』には、本誌12月号で紹介した小石川上水のほかに、「山王山のもとの流を西南の町へ」と記された「赤坂溜池」の存在があった。赤坂溜池とは、東京メトロ溜池山王駅がある外堀通り周辺、山王日枝神社下にあった貯水池のことで、江戸市街地南部の上水施設であると同時に、江戸城の外濠を兼ねた存在だった。水源は新宿区須賀町付近の鮫河橋谷で、千日谷の一行院裏庭の湧水を合わせ、迎賓館の裏庭を流れて赤坂見附下の弁慶濠に通じていた。その流れをダムで堰き止め、水を溜めたのが赤坂溜池だった。都心有数の歓楽街・赤坂はウォーターフロントの町でもあったわけだ。溜池周辺の湿地帯は田圃だった時代もあり、江戸の市街地拡張に伴い田地を開拓したのが赤坂田町であった。

溜池は明治期まで存在したので、その様子は明治初期に描かれた測量図で詳しく知ることができる。川の流れを堰き止めるダムがあったのは、現在の特許庁とアメリカ大使館を結ぶあたりで、武蔵野台地の谷間から低地へ流れ出る場所(谷口)にあたる。その風景は歌川広重の「名所江戸百景」でも描かれている。ダムよりも東側の低地は、日比谷入江の下流部にあたり、入江埋め立て事業のためにも溜池ダムは無くてはならない存在だった。多目的なダムで、水を溜める目的のほかにも、潮の干満の影響が溜池に及ぶのを防ぐ役割もあった。ダムから流れ出た川は、海側の汐水が溜池へと逆流するのを留められたので汐留川の名がついた。

現代の地図と明治16〜17年(1883〜1884)頃を描いた五千分一東京図測量原図、そして江戸時代の切絵図を比較してみよう。明治8〜9年(1875〜1876)頃に放水口の石材を外して水を落とした結果として溜池が干上がり、陸地化が進んでいる様子が測量原図には描かれている。溜池と並行して赤坂方面から流れてくるのは玉川上水の分水で、ダムの直上で溜池に流入する水路とは別に、潮見坂を下って「桜川」と呼ばれた細流に注ぐ水路も描かれている。江戸の切絵図には「水番所」の表記があり、ここで分水量の調整をしていたのであろう。この辺りは桜川の最上流部で、明治の測量原図を詳しく眺めると、工部省の敷地内(現在の虎の門病院の土地、江戸時代は佐賀藩鍋島家の屋敷地)から流れ出る、二つの小さな水路が描かれている。これらの流れが桜川の水源らしい。潮見坂を下る水路は、桜川への補水を目的に築かれた玉川上水の導水路であろう。

ちなみに桜川とは、桜田郷とよばれたこの地を流れた細流で、震災復興の時に暗渠〈あんきょ〉の痕跡を見つけることは難しい。古川(渋谷川)との合流地点、将監橋〈しょうげんばし〉のたもとに石組みの吐水口が遺されている程度である。桜川については史料が乏しく、先に紹介した測量原図に描かれた水源の存在にも疑問が残る。なぜなら水源の後背地(地下水を貯える土地)があまりにも小さいからだ。あり得るのは、測量原図で湧水スポットのように描かれた池や水路は、溜池の水を埋樋〈うずみひ〉で導いた水利施設だったのではないか?という仮説。その前提だと桜川とは、溜池の水を増上寺など城南地域へと届ける導水路だったということになる。玉川上水の通水後に桜川へ直結する分水路があったのは、増上寺周辺の都市化が進み、より多くの水量が必要になったからと理由付ければかつての水路網の変遷も理解しやすい。

土地の微妙な高低差にも先人たちの営みが隠されている場合がある。「地形」をたよりに知られざる歴史を想像する「知の冒険」へ出かけてみてはいかがだろうか。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。
地形を手掛かりに町の歴史を解き明かす専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。
著書に『東京「スリバチ」地形散歩』(宝島社)や『東京スリバチの達人/分水嶺東京北部編・南部編』(昭文社)などがある。2022年にはイースト新書Qより『東京スリバチ街歩き』を刊行。
専門は建築設計・インテリア設計。

(ノジュール2024年4月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)

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