河合 敦の日本史の新常識 第44回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

日本の命運を分けた黒船来航

アメリカをたじろがせた交渉術とは!?


イラスト:太田大輔

今年は下田〈しもだ〉が開港して170周年にあたり、下田市では多くの催しが予定されている。私も先日、「なぜ下田が開港地に選ばれたのか」をテーマに講演してほしいと依頼を受けた。講演にあたって調べてみると、意外なことが分かったので、今回は幕末に光を放った国際港・下田について語ろうと思う。

嘉永7年(1854)一月に再来したペリーは横浜で幕府と交渉し、三月に日米和親条約を結んだ。こうして下田は即時に開港され、アメリカ船に薪しん水すいや食糧、石炭などの欠乏品を提供することになった。

こうしてペリー艦隊は三月半ばから順次下田に入港してきた。

同年五月、開港場に関する具体的な交渉のため、ペリーは300名を伴い下田に上陸した。大砲四門と武器を携え、旗を押し立ててやって来たが、下田の人びとを驚かせたのは軍楽隊の演奏だった。交渉の場には了仙寺〈りょうせんじ〉が選ばれ、幕府側は林大学頭〈はやしだいがくのかみ〉を筆頭に井戸対馬守〈いどつしまのかみ〉らが出席した。丁々発止〈ちょうちょうはっし〉のやりとりが面白いので、幕府側の記録『墨夷応接録〈ぼくいおうせつろく〉』をもとに約十日間の記録を簡単にまとめて紹介しよう。
幕府側 暗礁の目印として、あなた方は港のあちこちに杭を立てているが、アメリカの印がついている。撤去してほしい。無いと困るなら、日本の印がついたものにする。
ペリー側 分かった。貴国の印のついたものに替えよう。さて、和親条約では下田港から七里は自由に行動してよいことになっていた。なのになぜ勝手に関門を造って移動を制限したり、我々が歩くさい付添人をつけるのか。これを拒否する。
幕府側 関門は移動を制限するものではない。付添人はあなたがたの安全を守るため。なお、黒船の祝砲がうるさくて漁ができない。やめてほしい。
ペリー側 祝砲については分かった。ところで、うちの水兵が武士にねだられ金の指輪を見せたところ、それを盗んで逃げたという。きちんと調査してほしい。
幕府側 分かった、対応しよう。ただ、関門は設けさせてもらうし、アメリカ人が上陸するさいは届けを出してもらう。また市内ではみだりに町人の家に立ち入らないでほしい。宿泊も認めない。
ペリー側 では、休息所を造ってほしい。
幕府側 了仙寺と玉泉寺〈ぎょくせんじ〉を提供する。ところで、アメリカ兵が鉄砲で鳥を落としたというが、猟はやめてほしい。日本でも許可を受けた猟師しか認めていない。
ペリー側 分かった。ところで今後開港する箱館〈はこだて〉だが、和親条約のさい遊歩区域は七里と言ったはず。今回の取り決めでそれを明記してもらいたい。
幕府側 今調査中だ。決定は来年三月になる。
ペリー側 そのとき私はいない。別人が来て違う条件を出すかもしれない。待てないので、江戸に行って直接老中〈ろうじゅう〉と談判する。
幕府側 それは困る。ところで、あなたがたは箱館に上陸し、勝手な談判をしたと聞く。港の様子を見るだけという約束だったはずだ。しかも現地の役人に対し、 談判に応じないと林大学頭に一万両を負担してもらうことになると脅したという話だが、それは本当か。
ペリー側 そんなことは言ってない。通訳のミスだろう。
幕府側 じつは、あなた方が役人に差し出した漢文がここにある。

これを聞くと、ペリー側はうろたえ、「それは、書いた者の誤解である」と苦しい弁解をしたうえで「なぜあなた方は十日前の箱館での出来事を知っているのか。江戸から箱館まで数十日かかると言ったではないか。やはり、蒸気船を隠し持っているのですね」と返した。

幕府側 時間がかかるのは、部下を多く連れて行く身分の高い者。飛脚は速いのだ。
ペリー側 いずれにしても、今ここで箱館の遊歩区域を決定してほしい。
幕府側 調査中で無理だ。即決しろというなら一里まで。
ペリー側 七里と約束したではないか。ならば来年、軍艦で浦賀〈うらが〉へ行く。
幕府側 分かった。ならば五里。
ペリー側 承知した。

私たちは教科書で、幕府はペリーの要求に屈して和親条約を結んだと習うが、幕府の代表が唯々諾々と相手の言い分を飲み込んでいないことがわかるだろう。箱館の遊歩区域も七里から五里に狭めることに成功している。

こうして了仙寺で下田条約が調印された。この折ペリー側は椅子に座っていたが、幕府側は正座していた。ただし、畳を何枚も積み重ね、ペリーたちと目線が同じになるようにしたという。あくまで自分たちはアメリカと対等であると誇示したのである。

こうして下田は国際港となったが、ペリーが去るとすぐに今度はロシアのプチャーチンが条約交渉のために入港してきた。その直後にとんでもない悲劇が起こるのだが、それについては次回詳しく紹介しようと思う。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『号外!日本史スクープ砲』出演のほか、著書に『平安の文豪』(ポプラ新書)

(ノジュール2024年5月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)

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