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松尾芭蕉生誕380年
『おくのほそ道』の絶景に出合う旅
おくのほそ道 × 山形【山形県】
日本の紀行文学の端緒を開いたともいわれる松尾芭蕉の代表作『おくのほそ道』。
約150日の旅のうち約40日を過ごした山形県では多くの名句が生まれています。
芭蕉の心を動かした風景に出合いに、みちのく山形へ。
緑濃く幽幻な山寺で
閑けさにたたずむJR山寺駅を降りると、そこにはすでに山の空気が満ちていた。
松尾芭蕉が当初予定していた旅程に山寺はなかったが、滞在していた尾花沢〈おばなざわ〉の人々に勧められ、芭蕉は旅程を変更して山寺に来たのだという。弟子の曾良〈そら〉を伴い、夕刻、この地に到着した芭蕉は、その足で「山寺」とよばれていた宝珠山立石寺〈ほうじゅさんりっしゃくじ〉へと向かったという。芭蕉にならい、駅を出るとそのまま宝珠山立石寺へ。
宝珠山立石寺は平安時代に創建された天台宗の古刹である。すばらしい景観で知られる奥之院までは1000段余りある階段の参道を上がっていく。まずは山門前にある売店で、参詣名物・力こんにゃくを味わう。この地の名物の玉こんにゃくをシンプルにしょうゆで煮たもので、ぷりぷりとした歯ごたえがいい。
参道は深い緑に包まれ、静けさが心地よい。一段上るごとに煩悩がはらわれると伝えられている。芭蕉が歩いた時代の姿を残す階段は所々「ほそ道」になっており、「山寺」という通称にふさわしい。奥之院までの道の中ほどのひときわ緑深い場所にせみ塚があった。ここで芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の句をしたためた、短冊を埋めたという。苔むした岩が美しく、森閑〈しんかん〉としている。たたずんでいると、芭蕉が詠んだ「岩にしみ入る」の意味するところを体感できた。
さらに階段を上り、奥之院でお参り。振り返ると、「百丈岩〈ひゃくじょういわ〉」とよばれる巨岩の上にぽつんと開山堂が立っている。宝珠山立石寺を開いた慈覚大師〈じかくだいし〉の御堂だ。隣には写経を納めた納経堂がある。ここからは連なる山々と眼下に山寺の町が広がる絶景を望める。芭蕉が眺めた風景はどのようなものであっただろうか。かつての景色を想像してみる。
最上川の流れに
先人たちを思う山形の母なる川・最上川〈もがみがわ〉。福島県との県境に源を発し、山形県酒田市で日本海に注ぐ、舟運の道でもあった。
芭蕉は尾花沢に10泊したのち、大石田を経て、川湊の本合海〈もとあいかい〉から舟に乗り、酒田へと最上川を下っていった。米沢から北上する最上川は、本合海で八向山〈やむきやま〉南壁に当たり、西に大きく流路を変え、日本海へと向かう。庄内と内陸を結び、太平洋側への交通の要衝でもあった本合海は古〈いにしえ〉から歴史が刻まれた場所であると同時に、芭蕉が訪れた当時は日々100艘を超える舟が行き交う賑やかな湊であったという。
しかし、芭蕉がこの地を訪れてから335年の時が経ち、舟運がなくなった最上川は今、静かに美しく滔々〈とうとう〉と流れ、人の姿もほとんどない。
この本合海でも芭蕉の心に刻まれることは多かったのではないだろうか。ここには「五月雨をあつめて早し最上川」の句が刻まれた石碑が立つ。
芭蕉のように舟から最上川を見てみたいと、最上川舟下り義経〈よしつね〉ロマン観光のクルーズに参加した。この道約25年のベテラン船頭さんが操舵〈そうだ〉する舟で行く。案内人の芳賀由也〈はがよしや〉さんは40年近く、最上川を訪れる文人をはじめ、多くの人に最上川の魅力を伝えてきた。「今、酒田方面に川を下っていますよ。この景色はまさに芭蕉が見たのと同じ景色です」
左岸に見え隠れする国道以外は人工物がほとんどなく、原生林が茂り、川岸には川鵜が遊ぶ。舟は途中でUターンして上流に向かった。「今見ている風景は、約800年前に源義経が兄・頼朝〈よりとも〉に追われ、平泉に向かって逃げ落ちるときに見た風景ですよ。旅程は逆向きになりますが、芭蕉が『おくのほそ道』で辿ったのは義経の足跡でもありました。すぐ近くの仙人堂は義経が体を休めた場所に、その後義経と別れた従者・常陸坊海尊〈ひたち ぼうかいそん〉が建立したといわれ、芭蕉も訪れました。さあ、仙人堂に行ってみましょう」
仙人堂へは舟でしか行くことができない。上陸後、湧き水の泉でのどを潤し、お堂にお参りする。中にはいくつもの天狗の面が奉納されており、ここが出羽三山〈ではさんざん〉に近いことを思い起させる。
その後、川べりに設えられたベンチで、歯ごたえのよい十割そばと、鴨のだしがきいた地元野菜たっぷりの芋煮を味わった。
芭蕉が先人の見た風景を訪ねたごとく、芭蕉が見た風景を求めた山形の旅。そこにはまさに不易流行、変わらざるものと変わりゆくものが織りなす風景が待っていた。