東西高低差を歩く 最終回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

魅惑の高低差・スリバチの聖地

荒木町


イラスト:牧野伊三夫

新宿区荒木町。凹凸地形が多い東京においても、極めつけの土地の高低差を体感できる町。そして四方すべてを崖で囲まれた、正真正銘スリバチ状の窪地の町でもある。その独特な地形に加え、石畳の路地や屈曲した石段が複雑に入り組む迷宮都市。「おすすめのスリバチは?」と聞かれたら、まず一番に挙げるスリバチの聖地だ。

道路が狭く車での進入が困難な一角ゆえ、逆にウォーカブルで静かな環境が保たれている。窪地の底には「策〈むち〉の池」とよばれる小さな池と弁財天が静かにたたずむ。住宅地と商業地が混在した町で、大型チェーン店が少なく、個人経営の小さな飲食店が軒を連ねているのが特徴だ。歩いてみると場面場面で風景が変わり、来るたびに発見のある町となっている。

そんな都会の隠れ家のような町は、東京の中でも特別な歴史を歩んできた。

江戸時代、この地に築かれたのは尾張藩の支藩である美濃高須〈みのたかす〉藩松平家の上屋敷。都内に点在する多くのスリバチ地形が大名庭園に利用されたのと同じく、窪地で湧き出た水をたたえた池を中心に据えた池泉回遊式庭園が、この地にも広がっていた。現在でも見られる策の池と弁財天はその名残。池の名は徳川家康が鷹狩りの帰りに汚れた策を泉水で洗ったとする伝承にちなむ。

湧水による凹地形の場合、流水の出口があるはずだが、荒木町の場合、その出口が高さ8mほどの堤(ダム)で塞がれている。この堤は谷頭〈こくとう〉で湧き出た水を堰き止めるダムのような役割で、天和3年(1683)ごろに築造されたと推察されている。泉水はもともと、現在の靖国通り付近を流れていた紅葉川に注いでいた。興味深いことに、堤の下部にあった石組みの暗渠〈あんきょ〉が、下水道工事で発掘されている。その石組みの暗渠は付近の下水施設に役割を変え、現在も立派にその役目を果たしている。明治以前に造られ、現役の下水道としては大阪の太閤下水に次いで古いものだそうだ。

明治維新後、全国の幕領が朝廷領となる中、この地は明治5年(1872)、庶民に開放されることになる。池を囲み、起伏豊かで風光明媚な一帯には芝居小屋や料理店・茶屋が集まり、山の手の一大遊覧地として発展してゆく。江戸の大名庭園の多くが、宮家や財閥の邸宅に転用されたのとは異なり、荒木町の場合は土地が細切れに分譲され、都市化されていった。戦前・戦後には三業地(料理店・芸者置屋・待合の3種の営業が許可されている地域)となり、盛り場として大いに賑わった。この地の芸妓は「津の守芸者〈つのかみげいしゃ〉」とよばれ、気品が高かったという。現在も残るゆるやかな石段や石畳の路地は、花街の記憶なのだ。

明治の賑わいを伝える資料として、「四ツ谷伝馬町新開遊覧写真図」がある。池の畔には開放的な料理店が連なり、崖を流れ落ちる滝も描かれている。納涼の場所として人気だった滝は元々、大名庭園の時代に築かれたもので、甲州街道の地下に敷設された玉川上水の水を引き込んだものらしい。

神楽坂とともに山の手の遊行地として隆盛を誇った荒木町ではあったが、時代の変化の中で三業組合は解散、料理店も次々に廃業していった。跡地の多くがマンション用地となったものの、新たに個性ある飲食店舗が開店して、まるで土地の記憶をなぞるよう独特なエンターテインメント空間として異彩を放ち続けている。

東京のユニークさは、土地の高低差によって町の様相が大きく異なることだろう。個性ある町が土地の起伏に呼応するよう並置・共存しているのだ。その楽しみ方は、やはり現地を歩き、そこに身を置き、五感で感じることだと思う。そんな体験を多くの人と共有し、感動を分かち合う集まりがある。

それが東京スリバチ学会だ。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。
地形を手がかりに町の歴史を解き明かす専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。
著書に『東京「スリバチ」地形散歩』(宝島社)や『東京スリバチの達人/分水嶺東京北部編・南部編』(昭文社)などがある。
2014年にはグッドデザイン賞を、2023年には地域再生大賞優秀賞を受賞した。
2024年11月に実業之日本社より『東京スリバチ散歩―地形の楽しみ方ガイド』を出版。

(ノジュール2024年12月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)

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