[エッセイ]旅の記憶 vol.70

ご当地ソングで歌う地域の歴史

童門 冬二

去年の誕生日に私は満九十歳になった。しかし依然として地方での歴史講演は絶えず、週に一回ずつ旅に出る。会場で心掛けるのはまず話の枕に“ご当地ソング(その地域にかかわる歴史のエピソード)”を披露することだ。その前に「ソツジュながら」と話し出す。九十歳の“卒寿(そつじゅ)”と「突然で失礼ですが」という意味の“率爾(そつじ)”を引っ掛けたものだが、聴き手には余り受けない。「不発でしたね」とギアチェンジする。“ご当地ソング”で私自身が非常に乗っているのがふたつある。“虹の松原”と“和倉”だ。

虹の松原は佐賀県唐津市にある。この地の領主を命ぜられた寺沢広高(てらざわひろたか)は、玄界灘に突き出た岬の上に築城した。岬を鶴の頭部と胴体とみた。両側に連なる海岸の白砂を鶴が拡げた羽とみた。いまも“舞鶴城”の別名がある。

広高は翼を拡げて空を舞う鶴の姿を居城に重ねたのだ。この発想はかれだけでなく、他にも沢山の大名が夢見ている(鹿児島・会津など)。さらに広高は玄界灘から吹く強風が白砂を巻きあげて、領内の田畑に降りかかり農民を苦しめるのを見兼ねて、規模の大きい防砂林を造らせた。何重にも及ぶ松を植えさせ、長さは十キロ近くに及んだ。そのため防砂林は“二里(約八キロ)の松原”とよばれた。これがやがて“虹の松原”とよばれるようになる。

広高の善政は領民の徳とするところとなり、市内にあるかれの墓は巨きい。周囲は沢山の桜の木に囲まれている。鏡山の頂上から見る唐津城・虹の松原・玄界灘の三位一体の風景は、いつまでも日本に遺したい心の温る美しい自然だ。

和倉は石川県の能登半島にある温泉地で七尾(ななお)市内にある。湾の前面に大きな島(能登島)が坐りこみ、日本海の荒波を防いでくれる。波のない日の海面は湖のように静まり、旅人の心を鎮める。昔、この浦から湯が涌いたという。住む人々は桶を持って海が噴き立てる湯を汲んだという。“湯の涌く浦”がやがて「和倉」になった。その由来を愛し国守だった大伴家持(おおとものやかもち)たち都の文化人たちが、舟を浮べて歌作に耽った。その光景は現在(いま)も宿の窓辺から眺める海のスクリーンに、まざまざと映写される。

今月は月末に北海道稚内(わっかない)への講演旅行が予定されている。地名の由来はアイヌ語の「ヤム(冷たい)ワッカ(水のある)ナイ(沢)」のことだという。サハリンを遠望する、戦中派の私にとっては複雑な思いのする土地だ。


イラスト:サカモトセイジ

童門 冬二〈どうもん ふゆじ〉
小説家。1927年東京都生まれ。
東京都庁に勤務し、広報室長、政策室長などを歴任。1979年に退職し、作家活動に入る。
歴史小説を中心に、ノンフィクションやエッセイなどを執筆、講演会も頻繁に行っている。
主な著書は、『小説上杉鷹山』『西郷隆盛天が愛した男』『たのしく生きたきゃ落語をお聞き』など。

(ノジュール2018年10月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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