[エッセイ]旅の記憶 vol.71

遠い空

村田 喜代子

昔から高い所や閉じ込められたような場所が苦手だった。飛行機はその高い所と狭苦しい所が合わさっているのでもう絶対ダメである。ところが人生半ばで作家の仲間入りをしたために、飛行機に乗らねばならなくなった。

急にアメリカへ行く仕事ができたのだ。1ヵ月間、ワシントンからサンフランシスコまで、山岳地帯を経て大陸を横断する。通訳とは現地で会う。初めて国際線の飛行機に乗り、離陸したときは鳥肌立った。けれどそのとき水の張ったコップの中を上昇するような妙な快感を覚えた。怖いけれど気持ち良い。国際便の機体は広々としていたせいだろうか。

さて1万何千メートルかの上空で、飛行機の窓のシェードが下りると偽物の真夜中ができあがる。そのとき私の頭の中に、地球儀そっくりの丸い北半球のまぼろしが浮かんだ。ケシ粒みたいな飛行機がその上を行く。私は夜を支配する神の眼を見たような気がした。

やがてアメリカのいろんな空を飛んだ。国際線の空は高いが、国内便の空からは丸い地球儀の幻影は消える。最も低い空はアリゾナのグランドキャニオンだった。当時そこへ行くには、十数人乗りほどの小型飛行機に乗った。

機体が飛び立つと、閉めたドアの隙間から地上の景色が覗いていた。空を飛ぶというより、岩山を掠めて行くような感じである。低空では機体の気密性はいらないのだと感心した。ヘリコプターみたいである。

自分の乗った飛行機の黒い影が、ゴツゴツした岩山の上に落ちている。その影が移動して行くのが見える。カメラを持った男性の乗客が巨体を揺すって機内を歩いた。動かないで。怒りを抑えて、私は懸命に両手を伸ばし座席の椅子の足を掴んでいた。万一、機体が墜落しても、どうぞこの椅子だけは落ちませんように。

ひと月後。ぶじ旅程を終えて帰国する機内での夜、私は夢の中で闇に浮かぶ青白い地球を見た。それが拡大されていくと、アリゾナの山岳地を豆粒みたいな私が歩いていた。眼が覚めると、自分をそこへ置いてきたような感じがした。そうして淋しさと共に、不思議な恍惚感が私の胸を震わせた。

飛行機コンプレックスはまだ残っている。けれど私はまたあのときのように、青白い地球のどこか遠くへ自分を置き去りにしたくて、飛行機に乗っている。


イラスト:サカモトセイジ

村田 喜代子〈むらた きよこ〉
小説家。1945年福岡県生まれ。1987年『鍋の中』で芥川賞を受賞。
98年『望湖』(川端康成文学賞)、2010年『故郷のわが家』(野間文芸賞)、14年『ゆうじょこう』(読売文学賞)など受賞歴多数。
『エリザベスの友達』が10月末刊行された。

(ノジュール2018年11月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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