[エッセイ]旅の記憶 vol.73

いつだって初詣

宮田 珠己

初詣が好きだ。

あの気持ちが改まる感じがよくて、毎年欠かさない。家族は結構面倒くさがるのだが、無理やり連れていってお参りする。その後さらに個人でもあと2か所ぐらい行く。三社参りなんて言葉を知る前から、三寺社ぐらいはいつも回ってきた。

さらに、初詣が好きすぎて、正月でなくても初詣に行くことがある。

たとえば昭和が終わり、平成が始まった平成元年の1月8日。7日に昭和天皇が崩御され、ああ、時代が変わると思ったとき、初詣に行かなければと思った。昭和64年の初詣を5日前に済ませたばかりだったけれど、まずは初日の出だと思い、友達を誘い、車を用意して房総の九十九里浜に行く計画を立てた。残念ながら寝坊して平成の初日の出は見逃したが、かわりに川崎大師へお参りした。

10年近く働いた会社を辞めたときも、季節は夏だったけれど、初詣が必要だと考えた。

人生の一大転機であり、ここは最強の場所へ詣でなければと意気込み、日本地図を眺めて、高野山へ行こうと思い立った。

出雲大社や伊勢神宮も候補にあがったが、なんとなく高野山のほうが強いパワーをもらえそうな気がしたのだ。そして実際にパワーをもらうことになったのである。

それは金剛峯寺(こんごうぶじ)にお参りしたときのことだ。金剛峯寺には蟠龍庭(ばんりゅうてい)という枯山水の庭園があり、雲海の中に雄雌の龍が向かい合う姿を表していると説明書きにあった。

私は以前から日本庭園を観るのが好きだったが、ただ好きというだけで見方を知っていたわけではない。むしろ何ひとつ庭に関する知識のない自分を恥じていた。自分は庭を語る資格のない人間だと思っていた。

なので、蟠龍庭の石を前にして、それらしい顔をしながらその実何もわからないで座っていたのである。

しばらくたって別殿へ向かう回廊を歩きだしたとき、ふと赤い石が目にとまった。それは一面に草がついて、全体が山のように見え、気がつくと私は、自分が小さくなってそこを登っている姿を想像していた。

そのとき、不意にひらめいたのだ。それでいいのではないかと。自分は石を山に見立てて庭を楽しんでいる。それが自分の見方じゃないか。

そして、これからは自分のやり方を信じて生きていこうとの決意を強くしたのである。あれは初詣の賜物だったと今でも思っている。


イラスト:サカモトセイジ

宮田 珠己〈みやた たまき〉
1964年兵庫県生まれ。作家。旅とレジャーのエッセイを中心に執筆活動を続ける。
『アジア沈殿旅日記』『無脊椎水族館』『私なりに絶景ニッポンわがまま観光』など著書多数。

(ノジュール2019年1月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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