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[エッセイ]旅の記憶 vol.78

一人旅のイタリア

パンツェッタ 貴久子

人生初の海外旅行は1979年、母に連れられて行ったイタリアだった。今年からちょうど40年前。その数年後に美術留学し、夫と出会い結婚して帰国。日本での生活に戻ってからも、当初は旅行といえばイタリア一辺倒だった。というのも結婚前後のいわゆる蜜月期から、夫がやたらと旅行を勧めてきたからだ。「そろそろ旅行でもしたいんじゃない? 行きなさい行きなさい」って言ってくる。これが一人旅のことだから、はたから見るとちょっと危うい夫婦に思えるかもしれない。実際私が不在の家はなんだか楽しそうで、ワインを飲んだ痕跡やゆっくり入浴した形跡、テレビの前で長々くつろいだと思しき証跡。どれも普段はしないことばかり…。

それは家庭の問題としてさておき、一人でいきなり旅に出るのなら言葉くらいは通じるところへと、結局イタリアに行くことにする。当時はインターネットなどなかったので、いつもミシュランホテルガイドでベッドマークの付いた宿を選んだ。ベッドマークは静かで寛げる宿の印なのだ。例えばローマやフィレンツェのような賑やかな街でも、徒歩20分ほどの閑静な住宅地に素敵なプチホテルがあるものだ。

分厚いガイドブックの目的地だけ数ページを引きちぎり、あとはミステリー数冊を持って旅立つ。

ホテル中で一番遅い朝食をとり、掃除の間ブラブラ街まで降りて行く。その頃の興味は文化的遺産よりも、道すがらの美しい草木や辺りを包む空気、古色蒼然とした屋敷の佇まい。まるで近所の住人のちょっとしたお出かけのようにゆっくりと慣れた風に歩いてみる。

フィレンツェならば古い塀に絡まり幾重にも揺れる藤の花。タオルミーナの草むした急階段と眼下に広がる真っ青な海。何日歩いても歩ききれないローマを徘徊し、ホテルへの帰りに寄ったバチカンが覗ける鍵穴。まぶたの裏に刻まれた数々の風景たち…。

歩き疲れるとそこいらの惣菜屋で何か食べ物を買い、ホテルのベッドに倒れこむようにして眠り、起きだしてはミステリーを読みながら「イタリアはこんなお惣菜でも美味しいわ」なんて独り言を言いながらの食事をした。言葉ができようとできまいと、ほぼ誰とも話さずに毎日を過ごした。

まだまだうら若き夢見る乙女で、ノーテンキでノンポリ、おまけにしばしば天然と言われた私が、その未来に自分や周囲に訪れる様々な人生を何も知らずに、イタリアを満喫していた幸せなあの頃の旅の思い出だ。


イラスト:サカモトセイジ

パンツェッタ きくこ料理研究家。1960年東京都生まれ。
多摩美術大学日本画科卒業後、イタリア・ナポリ、国立カポディモンテ磁器学校に留学。帰国後はイタリア料理教室「ラ・タータ」を主宰し、飲食店のオーガナイザーとしても活躍中。
夫でタレントのパンツェッタ・ジローラモ氏の著書翻訳と共著も多数。

(ノジュール2019年6月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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