東西高低差を歩く関西編 第3回

地形に着目すれば、新しい姿や物語が見えてくる。
そんな町歩きの連載第三回目は、京都の清水寺。
もはや有名すぎるほどの名所ですが、目線を変えれば違う一面が見えてきます。

清水寺 天上の広場空間


イラスト: 牧野伊三夫

京都の住民として、お気に入りの場所がいくつかある。なかでもとっておきが「清水寺の仁王門前」と言えば意外だろうか。

ご存じ清水寺は、京都有数の観光地として今現在も多数の参拝客を集めている。有名な「清水の舞台」こと壮大な本堂や霊水として知られる「音羽の滝」など、改めて紹介するまでもないだろう。しかし私にとって、清水寺「仁王門前」の空間ほど大切に思う場所はない。

京都市内中心部からは鴨川を東に渡って、ゆるやかな坂道を2㎞ほど歩けばもう清水寺だ。途中、清水寺が立地する東山連峰を生んだ「桃山断層」の断層崖にも注目しながら歩くと、地理好きには楽しい道行きとなるだろう。

清水寺に到着したら、まずは仁王門の前から背後を振り返って欲しい。そこからは眼下に京都市街地が広がり、手前には市街地と境内を結ぶ参道「清水坂」の町家群が連なっている。さらに奥へと視点を進めると、遠くに愛宕山もはっきり見えるはずだ。そしてこの場所は、開けた空間として整備されていて、世界中から集まった参拝客が自由に時を過ごしているすがたを見るのも楽しい。ここは一種の広場となっているようだ。

京都市街地からは見上げるような高さにあって、世界中の人びとが集まる広場。清水寺仁王門前を、「天上の広場空間」と呼びたい気持ちをおわかりいただけるだろうか。

しかし一方で、仁王門前の広場空間こそ、清水寺にとって「近代化」と「問題解決」のシンボルともいえる場所だった。その経緯を知ると、さらにこの場所への思いが増すことだろう。清水寺にとって近代とは、すなわち困難の歴史だった。近代新政府による1871(明治4)年と1875(明治8)年の二度にわたる「上地令」によって江戸時代までの領地・境内の大半が没収され、年貢や地代から得ていた収入が絶たれてしまった。加えて、清水寺はそれまで檀家をもたず、天皇家や公家・武家などのパトロン寄付によって支えられる祈願寺の性格が色濃かった。そのため明治維新後の東京遷都によって、それらパトロンの多くが京都から東京へと転居してしまった結果、さらなる収入減に見舞われることになった。明治維新後の清水寺は、危機に瀕していたのだ。

状況の好転は、明治維新から実に30年後のことだった。近代化によって荒廃した神社仏閣の保存を目的とした、「古社寺保存法」が1897(明治30)年に制定されたのである(現在の文化財保護法の前身)。これによって明治維新以降の文化財破壊に対して、歯止めと保護が可能になった。

また行き過ぎた変更には揺り戻しも生まれた。近代政府によって没収された清水寺境内のうち、1904(明治37)年に約20%が払い下げで回復されたのである。この境内回復によって、堂塔移転や植樹など、清水寺は本格的に境内再整備を進めていく。

時代も味方した。近代日本の資本主義がテイクオフした20世紀初頭、全国各地で相次いだ新交通機関の整備が清水寺の間近まで進んだのだ。1910(明治43)年、私鉄「京阪電鉄」が大阪天満橋駅〜清水寺最寄りの五条駅まで開業。1912(大正元)年、路面電車「京都市電」がこれも清水寺最寄りを含む東山三条〜馬町まで開業した。大量旅客輸送の時代は、清水寺に「観光客」という新たな訪問客を生むことになる。これによって清水寺の財政は大きく回復していった。

そして仕上げは、1915(大正4)年。仁王門前の空間整備である。現在の風景につながる石柵・敷石がこの時に設置され、新たに発生した大量の参拝客(観光客)を迎えるための「広場」がこの時完成した。大きくいえば、私たちがよく知る清水寺のすがたは、この仁王門前の広場完成によって整ったと評価できるかもしれない。

明治維新は、各地にそれまで経験したことのない変化を生んでいき、その変化への対応のあり方が今現在の私たちの社会像を決定づけている。この社会変化を「近代化」と呼ぶならば、清水寺にとっての近代化とはまさしく「問題解決」の道のりでもあったのだ。広場の風景からそんなことも感じてみたい。

梅林秀行 〈うめばやし ひでゆき〉
京都高低差崖会崖長。高低差をはじめ、まちなみや人びとの集合離散など、さまざまな視点からランドスケープを読み解く。「まちが居場所に」をモットーに、歩いていきたいと考えている。NHKのテレビ番組「ブラタモリ」では節目の回をはじめ、関西を舞台にした回に多く出演。著書に『京都の凸凹を歩く』など。

(ノジュール2020年1月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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