東西高低差を歩く東京編 第4回

地形に着目すれば、町のまた違った姿や物語が見えてくる。
そんな町歩きの魅力を関西・東京で交互にご紹介していく連載企画。
第4回は皆川典久さんによる東京・下北沢です。

巨人の足跡!?
謎の窪地が点在する町
下北沢、代田


イラスト: 牧野伊三夫

東京には「断層」とは異なる土地の高低差が存在している。

『ノジュール1月号』で梅林秀行さんが京都の東山連峰を生んだ桃山断層を紹介したが、東京都心には京都・清水寺のような圧倒的高低差を持つ段差は存在しない。海岸平野である低地と一段高い台地にまたがる東京の場合、段差はせいぜい10〜20m程度の規模である。けれども、その段差が「崖線」として東京の地形的特徴の一つを成している。明治の初めに日本へとやってきた地質学者ブラウンスは横浜から東京へと続く崖線を「沿岸の峭壁」と注目したし、エドワード・モースは車窓から大森貝塚を崖線に発見し、日本における科学的考古学の始まりとなった。

さて、ある程度の高低差を持つ崖線や断層なら、その存在に気づきやすいし、研究対象にもなり得ようが、東京・山の手には、比高5mにも満たない「浅い窪地」が存在している。自分は東京スリバチ学会を主宰し、世間で注目されることの少ない谷間や窪地を溺愛しているが、自分達よりも以前に、山の手に点在する謎の「浅い窪地」に関心を寄せた人がいた。その人の名は柳田国男。1875年生まれの民俗学者で、日本各地を調査旅行し『遠野物語』ほか多数の著作がある。

彼が関心を寄せたのは下北沢駅の北西部、住居表示で言うと「代田」と呼ばれる住宅地に点在する浅い窪地だった。そもそも代田という地名は古くから存在し、駅名にも世田谷代田や代田橋、新代田など複数あり、地元ではなじみ深い土地の名である。柳田国男氏は散歩の途中で発見した代田周辺に存在する、謎めいた浅い窪地を「巨人の足跡」と推論した。日本各地に流布している伝説の巨人「大太法師(だいたぼうし)、またはダイダラボッチ」がこの地を闊歩したのだと推測し、代田の地名もそれに由来するものだと説明した。

さて、窪地の研究家として結論を言っちゃうと、柳田国男氏が注目したダイダラボッチの足跡は、北沢川支流の源流部、水の流れの始まりに相当する浅い窪地のことだと思う。雨が降れば地面の水が集まる程度の緩い傾斜地であり、ここから流れ出た川は北沢川へと注いでいた。とはいえ、浅い窪地の成因ははっきりと解明されたわけではなく、地形学の理学博士貝塚爽平〈そうへい〉氏は『東京の自然史』のなかで、不明点も多いと断りながらも窪地の成因について、「石灰岩地帯のドリーネと同じように、地下に堆積している関東ローム層が窪地直下で流されたもの」と説明している。

それでは柳田国男氏が散歩途中で発見した窪地を凹凸地図で確認しよう。この場所は、北沢川支流の源流部にあたり、二つの流れが合流した場所にはかつて「薬研〈やげん〉池」とも呼ばれる池があったという。池の形状がちょうど右足の足跡のような形だったため、柳田国男氏は特にこの場所に注目し、ダイダラボッチの足跡伝説が生まれたわけだ。池の近くでは昭和の初めまでは湧水が見られたらしいが、一帯が宅地化され窪地も埋め立てられ、その湧水も失われた。窪地から発した川も暗渠化され、川の蛇行を想わせる湾曲した道が谷筋に残されている。付近は守山田圃と呼ばれた水田地帯であった。

代田周辺には同じような浅い窪地(水源)が複数あるため、「ダイダラボッチがこの辺りを闊歩したに違いない!」と柳田国男氏は想像力豊かにイメージを膨らませてゆく。氏はその魅力にすっかりハマり、ダイダラボッチの足跡を探すフィールドワークへと出かけて行った。そして代田以外でも、駒沢村、碑衾〈ひぶすま〉村などでも窪みを発見し「東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地」と記している(『柳田國男全集』筑摩書房)。東京スリバチ学会は「東京はスリバチの都」と少々大袈裟に紹介するが、柳田国男氏が興奮気味に語ったフレーズにも通じるものがあるように思う。なお、代田や下北沢周辺のスリバチ地形やかつて流れた川の存在については、昨年末に刊行された『東京スリバチ地形散歩・路地大冒険編』で詳しく紹介したので、興味を持った方は参考にしていただけると幸いだ。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。地形を手掛かりに歩く専門家として、「タモリ倶楽部」や「ブラタモリ」に出演。
町の魅力を再発見する手法が評価され、2014年には東京スリバチ学会としてグッドデザイン賞を受賞した。
著書『凸凹を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩』(洋泉社)が10月25日に新装刊。

(ノジュール2020年2月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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