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穏やかな運河の畔から食とアートの文化を発信

岩瀬【富山県】

文=狩野直子 写真=入江啓祐

北前船交易において野心的であった越中〈えっちゅう〉の廻船問屋。
神通川〈じんずうがわ〉の河口にあり、北前船交易の最盛期を担った岩瀬は、今再び、人と人が交わり、文化を発信する場所になっています。
北前船の商都の伝統美を楽しみながら、発見と出会いにわくわくする岩瀬を歩いてみませんか。

北海道と往復した北前船
繁栄を感じる岩瀬大町通り
富山駅からモダンな路面電車に乗って東岩瀬駅へ。住宅地を5分ほど歩くと、スムシコとよばれる出格子をもつ、木造の商家が軒を連ねる。加賀〈かが〉藩主の参勤交代のルートにもなっていた岩瀬大町通りだ。ここは江戸から明治にかけて廻船問屋が集まる湊町だった。

江戸時代、越中国(現・富山県)の北前船は加賀藩120万石の米の一部を瀬戸内・畿内に運ぶ役割を担っていたが、幕末になると北海道に盛んに進出する。当時から評判が高かった越中の米を北海道に運び、ニシン粕や昆布を持ち帰って販売した。当時、北海道と本州の物価の差は大きく、大阪と往復するよりも利益ははるかに大きかった。ここに目をつけた越中商人は、主に北海道との間を往復するようになる。

北海道に移住する人も多く、松前・江差・箱館だけでなく、遠く積丹〈しゃこたん〉や増毛〈ましけ〉、日露戦争以降は樺太やカムチャッカまで進出する北前船もあった。冒険的な気概と進取の気性に富んでいたのだろう。「越の国というだけあって、そもそも古くは海を越えて日本に来た海の民だったともいわれます。だから、船に乗って交易することは岩瀬の人間にとって自然なことだったのではないかと思うのです」と話すのは、岩瀬で富山の銘酒「満寿泉〈ますいずみ〉」を造る桝田酒造店の桝田隆一郎〈ますだりゅういちろう〉さんだ。

桝田家も明治の初めに北前船にのって北海道に渡り、当時開拓民や屯田兵で人口が急増した旭川で1500石の酒を造っていたことがあるという。北前船の時代に発した富山と北海道の関係はいまだに深いものがある。

(ノジュール2021年10月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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