東西高低差を歩く関東編 第24回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

江戸・東京の起点

日本橋


イラスト:牧野伊三夫

東京は「橋の町」でもある。正確に記すなら橋の町であった。この連載ではしばしば、「東京は坂の町」と紹介するが、それは皇居よりも西側の山の手台地での話。対照的に皇居の東側にあたる下町低地(海岸平野)には、数多くの運河や水路が張り巡らされていたため、橋も無数に存在していた。新橋、京橋、数寄屋橋など橋のつく馴染み深い地名が多々あるのはその証し。タクシードライバーの間では、複雑な東京の町を理解するために、山の手なら坂・下町なら橋の名に覚えるのが早道と言われているらしい。

さて、前回の関西編で紹介されたのが三条大橋。東海道の終点なので、関東編では起点である日本橋を取り上げたい。と書くと京都の方々には𠮟られるはず。そもそも「東海道」の名は、「京の都から東に行く海側の道」の意味だから、起点はあくまでも京都にある。ちなみに京都から東へ行く山側の道が東山道。

2連アーチの優美な姿を見せる石造の日本橋は明治44(1911)年に建設されたものだ。最初の架橋は慶長8(1603)年で、現在のものは20代目にあたる。上空を首都高速道路の高架橋が跨ぐが、2040年を目標に地下化され、高架橋は撤去されるのだそうだ。

日本橋の下を流れるのは日本橋川。自然河川ではなく人の手で掘られた運河だが、開削されたのは太田道灌の時代とも、江戸時代初期とも定かではない。建設年代を特定できる史料がないからだ。日本橋川とは元々、日比谷入江に注いでいた「平川」という自然河川を直接東京湾へと注ぐよう付け替えたもの。平川とは小石川(谷端川)や神田川となる原型の川で、流路変更に伴いその名は消えたが、平川橋や平河天満宮の名に記憶を留める。

日本橋周辺は日本橋波蝕台と呼ばれる微高地で、海に突き出した半島状の江戸前島へと続く本郷台地の延長部分にあたる。日本橋川は江戸前島のちょうど付根あたりを横断する形で開削されたわけだ。日比谷入江に注いでいた平川の付け替えで、日比谷入江の埋め立てが進んだのと同時に、町人地を横断する水路が誕生した。日本橋・神田界隈は微高地だったゆえ、江戸幕府が開かれる以前から先住者が住む土地だった。日本橋川という運河の完成によって一帯は、江戸有数の商業地へと発展を遂げる。日本橋のたもとには魚河岸が設けられ「江戸の台所」と称された。日本橋を起点に整備された街道筋には問屋や商家が軒を連ね、その賑わいの様子は多くの浮世絵に描かれ、江戸の名所となった。

微地形を表現した地形図からは、日本橋を起点とする中山道が日本橋波蝕台と本郷台地の尾根筋を辿って北上、奥州街道は浅草方面へとやはり微高地の一番高いラインを選んで築かれているのが分かる。微高地は江戸前島に付随して発達した砂州(砂嘴)に該当する。そして東海道が半島状の江戸前島の稜線(分水嶺)を南下している。その道筋は現在の銀座中央通りに引き継がれている。

これらの微高地は臨海部にありながらも洪水リスクが少ないことに加え、土地の高低差を活かした排水設備が設けられていたと考える。町としての営みを継続させるには、排水による衛生的環境の維持が不可欠で、わずかばかりの土地の高低差を活かしたまちづくりであったに違いない。

土地の高低差からは、都市形成の歴史や、都市建設に携った先人たちの知恵や工夫を読み取ることができる。それは京都や東京に限らず、すべての町や都市において、町の成り立ちを理解するための有効な方法と考えている。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。
地形を手掛かりに町を歩く専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。
著書に『東京スリバチ地形散歩』(宝島者)や『東京スリバチの達人/北編・南編』(昭文社)などがある。
都市を読み解くツールとして『東京23区凸凹地図』(昭文社)の制作にも関わった。

(ノジュール2021年10月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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