東西高低差を歩く 第60回
地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。
霊巌島
高低差の基準となった江戸湊
イラスト:牧野伊三夫
土地の高低差(海抜)の基準となるのが平均海水面の高さである。近代になると平均海水面データの全国統一が必要となり、水位観測所が設置されたのは江戸湊の中心地・霊巌島〈れいがんじま〉。聞き慣れない名かもしれないが、今でも中央区に健在で、「新川〈しんかわ〉」の住所でよばれている場所だ。霊巌島は、湿地帯だった葦原〈あしはら〉を埋め立て、寛永元年(1624)に霊巌上人が霊巌寺を開山したため、その名でよばれた。江戸の大半を消失した明暦3年(1657)の明暦の大火で霊巌寺も延焼し、境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったという。幕府の復興事業によって、万治元年(1658)に隅田川対岸の深川(現在地は江東区白河1丁目)へと移転している。
その霊巌島に水位観測所が設けられたのは明治6年(1873)。近代日本の水準原点となったが、その後、東京湾の埋め立てや隅田川の河川水の影響があり、より正確な観測をするために、沖合の神奈川県三浦半島の油壷に移転し、現在に至っている。
霊巌島は現在でも隅田川や日本橋川、そして亀島川〈かめじまがわ〉が四方を囲む独立した島となっていて、箱崎とともに江戸湊の中心地であったが、現在それを想像するのは難しい。港の機能はこの地になく、島内にあった多くの水路(掘割)が完全に埋め立てられたからだ。戦前までウォーターフロントとして東京の水運を支えていた掘割の記憶を呼び起こしてみよう。
日本橋川と並行して存在した掘割が新川で、万治3年(1660)に河村瑞賢〈かわむらずいけん〉によって開削されたもの。新川の河岸には多くの酒問屋が並んでいた。灘や伊丹などの上方で造られた「下り酒」は樽廻船によって江戸に運ばれた。品川沖で小型船に積み替えられ、多くが新川の酒問屋に納められた。絶大な人気を誇った下り酒は年間100万樽以上、江戸に運ばれたという。下り酒の新酒の入荷は11月、江戸の年中行事の一つであった。
水運の要だった新川も戦災焼土処理のために昭和23年(1948)に埋め立てられたが、石積みの護岸〈ごがん〉は撤去せずに埋められただけのようで、建設工事で地下を掘削すると護岸の石材が出土することがよくある。江戸湊の遺構として、後世に残せないものかと思う。
霊巌島には新川のほかにも、福井藩邸を囲むようコの字型の堀があり「越前堀」とよばれた。国元からの荷揚げ場として活用されたが、明治33年(1900)ごろに埋め立てられた。
そんな歴史をもつ霊巌島は、明治初期には箱崎とともに東京築港の候補地になったこともある。新一万円札の肖像でおなじみの渋沢栄一は、設立に関わった会社の創業地として、兜町〈かぶとちょう〉をしばしば選んだが、それは当時の商業の中心地・日本橋と、東京新港の中間地点に兜町が位置することを先読みしてのことであった。残念ながら東京築港の計画は、すでに近代的な港として機能していた横浜港の商人や外国貿易商の猛反対にあい、実現が叶わなかった。港の近代化が遅れた東京は、大正12年(1923)の関東大震災の際に救援物資の荷揚げに難渋し、そのことが昭和16年(1941)に沖合で開港する東京港を築く契機となった。
さて、霊巌島を「く」の字に縁どる亀島川は、日本橋川から日本橋水門で分かれ、隅田川へ注ぐ全長約1・1㎞の一級河川だが、都心河川としてある特徴をもっている。それはコンクリートの垂直護岸がないことだ。その理由は川の両端に水門が設置され、津波や高潮から守られているからである。だから72ページの写真で見られる隅田川のような垂直護岸は不要で、代わりに階段状の護岸が整備されている。知名度が低く利活用が進んでいないため、現状は少々さびしい印象で残念だが、水辺を隔てる「壁」がないため、生かし方によっては親水性の高い魅力的な場が生まれる可能性はある。
東京に限らず、大阪や名古屋など臨海部の都市は同様の治水対策がなされており、水際の「高低差」は、水との関わりの点で町の印象を左右し、都市の営みや景観にも深く関係している。臨海都市はみな「水の都」だった歴史があり、水際の今後の在り方については、議論の余地がありそうだ。
皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。地形を手掛かりに町の歴史を解き明かす専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。著書に『東京「スリバチ」地形散歩』(宝島社)や『東京スリバチの達人/分水嶺東京北部編・南部編』(昭文社)などがある。2022年にはイースト新書Qより『東京スリバチ街歩き』を刊行。2014年にはグッドデザイン賞を、2023年には地域再生大賞優秀賞を受賞した。東京の魅力は「地形と水」にあると考え、最近は水辺の魅力を発信する活動も行っている。