河合 敦の日本史の新常識 第69回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

戦国の世に翻弄された

気高き悲劇のキリシタン


イラスト:太田大輔

戦国時代、キリスト教の信者は急速に増え、大友宗麟〈そうりん〉や高山右近ら、大名やその一族も入信するようになった。細川忠興〈ただおき〉の妻・玉〈たま〉もその一人だ。のちの洗礼名・ガラシャとして知られる。ガラシャは、明智光秀の娘として生まれ、天正6年(1578)、16歳で光秀の同僚(与力大名)である細川藤孝〈ふじたか〉の長男・忠興と結婚。まもなく長女や長男が生まれ、幸せに暮らしていたが、天正10年(1582)6月2日、ガラシャの運命は暗転する。光秀が謀反を起こし、本能寺で主君・信長を自刃させたからだ。

光秀は乱後、藤孝・忠興父子に味方してほしいと頼むが、2人ともそれを拒み、謀反人の娘となったガラシャを京都の味土野〈みどの〉という山中に閉じ込めてしまった。まもなく光秀は、山崎合戦で羽柴秀吉に敗れて亡くなった。しかし忠興はガラシャを処刑したり離縁したりせず、ほとぼりが冷めた約2年後に秀吉の許可を得て復縁、彼女を大坂城下の玉造〈たまつくり〉屋敷に移したのである。

だが、ガラシャにとっては、父の敵である秀吉が建てた大坂城下に暮らすのは苦痛だったろうし、ガラシャの幽閉中に忠興が別の女性(側室)との間に子どもをつくっていた。そのうえ忠興は嫉妬深く、常にガラシャに見張りをつけ、監禁状態に置いた。例えば彼女がたまたま外にいた庭師と目が合うと、忠興はその場で庭師を斬り殺し、刀に付いた血をガラシャの服でぬぐったという。しかし、ガラシャも負けていなかった。血の付いた服をそのまま着続けたのである。さすがの忠興も謝罪したという。ともあれ、ガラシャは鬱々として過ごし、忠興と言い争うこともしばしばだった。

そんなとき、ガラシャはキリスト教の教えを知る。キリシタン大名・高山右近が語った内容を忠興がガラシャに話したことがきっかけだった。強く興味をもったガラシャは、自分の侍女を忠興に内緒で教会へ通わせ、疑問の点を侍女を通じて次々と宣教師に質問していった。そのやりとりを通してガラシャは教えに強く惹かれ、忠興が九州へ出兵した留守を狙い、密かに侍女とともに屋敷を抜け出し、身分を隠して大坂・天満のキリスト教会へ出向いたのである。日本人のコスメ修道士が熱心に教義を伝えると、大いに満足したガラシャは、すぐに洗礼を授けてほしいと申し入れた。だが、彼女が秀吉の側室ではないかと疑ったコスメは、後難を恐れてその願いを断った。

やがてこれを知った忠興は激怒し、ガラシャはさらに厳しく監視されるようになった。

けれどガラシャは、侍女やお付きの家臣たちを教会へ送って洗礼を受けさせ、その数は16人に及んだ。またガラシャ自身も、受洗した侍女のいと(マリア)から自室で洗礼を受けたのである。キリシタンになったガラシャは見違えるように明るくなったといわれる。

このころ、秀吉がバテレン追放令を発し、高山右近が領地から追放されるなどキリスト教に対する弾圧が始まった。だが、宣教師たちは潜伏して密かに布教を続けた。大坂・天満にも宣教師のオルガンティーノが潜んでいた。ガラシャは手紙や侍女を通じて彼から学びを得、忠興と離縁し、信仰生活に入りたいと相談することもあった。しかし、キリスト教では離婚を禁じているうえ、そんなことをすれば、さらなる弾圧を受けるやもしれない。オルガンティーノは、ガラシャを説得して思い留まらせたのである。

慶長5年(1600)6月、忠興は嫡男・忠隆とともに家康に従って上杉征伐のため会津へ向かった。すると翌月、石田三成ら西軍が挙兵し、大坂城周辺にいる東軍(家康方)大名の妻子を人質に取ろうと計画、手始めに大坂城近くの細川屋敷を囲んだ。

このときガラシャは人質になることを拒み、死を選んだのである。それが、忠興の命令だったからだ。留守中に非常事態が起これば、名誉のために死ぬようガラシャやその家臣たちに伝えていた。ガラシャはオルガンティーノに手紙でこの場合、自殺が許されるのかどうかを問うた。キリスト教は大罪として自殺を認めていないし、オルガンティーノが何と答えたのかは記録には残っていない。しかし家臣に自分の首を落とさせていることから、こうすれば自殺ではないと判断したのだろう。

ガラシャの死後、忠興はキリスト教に理解を示すようになり、教会で行われたガラシャの葬儀に参列し、涙を流したという。

また、ガラシャの信仰はヨーロッパでも大いに称賛された。のちに彼女を主人公とした劇が演じられ、これを見たハプスブルク家の人々にも大きな影響を与えたのである。

「ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

ガラシャの辞世の句である。まだ38歳だった。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。多摩大学客員教授。
早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『オモシロ日本史』(JTBパブリッシング)。

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