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東西高低差を歩く関東編 第12回

地形に着目すれば、町の知られざるすがたや物語が見えてくる。
第12回は、東京・浜離宮恩賜庭園。江戸が海に臨む町であったことを体感できる庭園に隠された“水のシステム”とは。

江戸の発明?
「潮入の庭」浜離宮恩賜庭園


イラスト:牧野伊三夫

江戸も京都と比較しうる庭園都市だった。

前回の京都編では、庭園都市・京都の中から梅林秀行崖長一押しの天龍寺の紹介があった。たしかに京都は寺院の庭園に限らず、茶室の露地や町家の坪庭に至るまで、庭園で満たされている。けれども江戸の町も、来日した外国人の多くから庭園都市と称されていた。その理由は、江戸の町には全国の諸侯の屋敷が1000ほどあり、それらの多くが広大な大名庭園を有し、緑に満たされた町の様相が庭園都市の佇まいだったからに違いない。残念ながら現代都市・東京ではその多くは失われたが、片鱗を随所で見かけることはできる。

江戸の大名庭園については、このシリーズで尾張徳川家の下屋敷「戸山荘」を紹介した。戸山荘に限らず、大名庭園の多くは池泉を中心に配した回遊式庭園であったが、丘陵に囲まれ水の豊かな京都と違い、江戸の場合は池泉の水をどう確保するかが大きな課題であった。そこで利用されたのが、武蔵野台地に点在する水の湧き出る谷戸(本書では「スリバチ」と紹介している)の利用だった。

さて、江戸の町は台地と低地にまたがって広がり、台地では湧水利用も叶ったが、海沿いの低地では如何にして池泉を成立させたのか。その代表的作庭が、江戸の発明ともいえる「潮入庭園」だ。潮の干満にあわせて海水が園内の池に出入りするもので、日本庭園史上に前例のない作庭様式だった。水を清浄に保つためには絶えず「流れている」ことが重要であり、傾斜のある土地ならば水の入れ替えも容易だが、平らな土地の場合はいかに水を流すかが肝要である。平地に造られた水田も一見平坦に見えるが、実際は水を循環させるため土地に高低差が設けられている。すべての水田は棚田ともいえる。

潮入の庭園は、潮汐の干満で異なる趣きを楽しむためのものではあるが、水を「流す」浄化システムそのものであり、自然に備わる海面変動の高低差(ポテンシャル)を活かし、新たなる生態系を育む可能性も秘める。江戸には多くの潮入庭園が造られたが、現在残る旧芝離宮恩賜庭園や旧安田庭園、清澄庭園などでは、海水を引き入れる機構は失われている。

しかし、都内で唯一潮入りの庭が健在なのが浜離宮恩賜公園だ。

浜離宮恩賜庭園は、徳川家四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重がこの地に「海手屋敷」として幕府から拝領したことに始まる。屋敷は綱重から子の綱豊に受け継がれ、宝永6年(1709)、五代将軍綱吉の死去によって綱豊が六代将軍家宣となって以降、「浜御殿」の名で代々の将軍家別邸として明治まで続く。明治維新後は皇室の離宮となり「浜離宮」と改められた。昭和20年に東京都に下賜され、昭和21年から一般に公開されている。

現在の庭園の姿は十一代将軍家斉(1787~1837在位)の時代に完成されたもので、将軍自身が休息や釣り、鴨猟などの遊行を楽しむ場であったが、江戸の将軍家を訪れる京都の公家達の接待の場でもあった。京都の庭園にはない潮入の庭は、公家達にとっては驚きだったに違いない。

京都にある大寺院の名園が、宗教的なテーマを主題としたものが多いのに対し、江戸の大名庭園は「戸山荘」のように旅行気分に浸れる「旅」をテーマにしたものをはじめ、「浜御殿」のように舟遊びや釣り、鷹狩、乗馬などのアクティビティを伴うものが多い。エンターテイメント的な要素が強いのも消費都市・江戸東京らしさなのかもしれない。土地の凹凸や潮の高低差を活かしたユニークな名園は、現代都市東京でしっかりと息づいている。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。地形を手掛かりに歩く専門家として、「タモリ倶楽部」や「ブラタモリ」に出演。
町の魅力を再発見する手法が評価され、2014年には東京スリバチ学会としてグッドデザイン賞を受賞した。
著書『凸凹を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩』(洋泉社)ほか。

(ノジュール2020年10月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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