河合 敦の日本史の新常識 第17回

ノジュール読者世代が「歴史」を教科書で学んだ時代から、はや数十年。
じつは歴史の教科書は、新事実や新解釈をもとに定期的に改訂されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
〝新しい日本史〟の〝新しい常識〟について、歴史家・河合敦さんが解説します。

財政難で未完の都となった平安京

その遷都の驚きの理由とは?


イラスト:太田大輔

「鳴くよウグイス平安京」でおなじみの、794(延暦13)年の平安京遷都。その10年前に桓武〈かんむ〉天皇は、奈良の平城京から長岡京へ遷都している。どうしてたった10年間で長岡京を捨てて再遷都したのだろう。

むかしの教科書では、「長岡京は、建設の長官であった藤原種継〈ふじわらのたねつぐ〉が暗殺されたこともあって、10年で破棄された」(『改訂日本史』東京書籍 1984年)と書かれている。これを読んでもよく理解できないだろう。

ちなみに最近の教科書では、次のように説明されている。『長岡京の造営責任者藤原種継暗殺事件に関係して、皇太弟〈こうたいてい〉の早良親王〈さわらしんのう〉が捕らえられて死亡すると、桓武天皇はその怨霊に苦しみ、和気清麻呂〈わけのきよまろ〉の進言を入れて、794年、さらに現在の京都の地、平安京に遷都した」(『日本史B』東京書籍 2017年)

これならわかる。それにしても、怨霊に苦しみ都を捨てたというのは驚きだ。

しかし、これはすでに定説になっており、ほかの教科書にも「早良親王がみずから食を絶って死に、その後、桓武天皇の母や皇后が相次いで死去するなどの不幸が早良親王の怨霊によるものとされた。そのほか、長岡京がなかなか完成しなかったことも、平安遷都の理由とされている」(『詳説日本史B』山川出版社 2018年)とある。

今回は、このあたりの事情を詳しく解説していこう。

桓武天皇は皇統が天武系統から天智系統に移ったことを意識し、人心の一新のため平城京からの遷都を決意。784(延暦3)年5月、山城国長岡〈やましろのくにながおか〉に遷都すると電撃発表した。そして腹心の藤原種継を造長岡宮使に任命し、突貫工事で宮殿の造営を急がせ、まだ宮が完成していないのに同年月に長岡へ遷ってしまう。

なお、遷都に際して桓武は、東大寺や興福寺などの大寺院が新都に移転することを許さなかった。奈良時代、大寺院が政治に介入したので、それを嫌ったのだ。 翌年8月、桓武は伊勢神宮に奉仕する斎王〈さいおう〉(未婚の皇女が任命)に決まった娘の朝原内親王の出立〈しゅったつ〉を見送るため、久しぶりに旧平城京へ行幸した。

ところが、留守中に種継が長岡京で何者かに射殺されたのだ。

激怒した桓武は犯人の逮捕を厳命。やがて数十人の関係者が捕縛されたが、その多くは春宮坊〈とうぐうぼう〉(皇太子の家政機関)の職員であった。このため桓武は、皇太子(皇太弟)の早良親王も逮捕した。

早良は桓武の同母弟だったが、11歳で出家して東大寺や大安寺で修行を積んできた。だから桓武は「早良は遷都に反対する仏教界と結託し、暗殺に関与した」と判断したのだ。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京都生まれ。
早稲田大学大学院卒業後、日本史講師として教鞭を執るかたわら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組「世界一受けたい授業」のスペシャル講師として人気を博す。
主な著書に『教科書に載せたい日本史、載らない日本史〜新たな通説、知られざる偉人、不都合な歴史〜』(扶桑社新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)など。
多摩大学客員教授。

(ノジュール2022年2月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
ご注文はこちら