河合 敦の日本史の新常識 第24回

ノジュール読者世代が「歴史」を教科書で学んだ時代から、はや数十年。
じつは歴史の教科書は、新事実や新解釈をもとに定期的に改訂されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
〝新しい日本史〟の〝新しい常識〟について、歴史家・河合敦さんが解説します。

源実朝暗殺の黒幕説も…!?

北条義時はどんな人物だった――?


イラスト:太田大輔

NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』もいよいよ佳境。タイトルの13人は、2代鎌倉殿(将軍)源頼家を補佐する有力御家人たちのことだ。

ただ、メンバーがいずれも50代以上のなか、北条義時だけが30代と若かった。これは頼朝の後家である政子の意思が働いていたからだという。鎌倉時代における女性の地位は比較的高く、財産の相続だけでなく、夫の死後、家長としてふるまうケースも少なくなかった。ただ、13人制度が発足してすぐに権力争いが勃発。まずは梶原景時が追放された。その後、頼家が舅の比企能員〈ひきよしかず〉と結んで北条氏の抹殺を計画するが、これを察した時政が先手を打って比企一族を滅ぼし、頼家を伊豆の修善寺に幽閉し殺してしまう。かわって弟の実朝〈さねとも〉が将軍になったが、1205年、時政が実朝を廃して後妻・牧の方の縁者を将軍にしようと動いた。これを知った義時は、姉の政子と協力して時政を伊豆に追放、さらに1213年、侍所の長官・和田義盛を滅ぼし、政所〈まんどころ〉に加え、侍所の長官(別当)を兼ねる地位に就いた。

これで義時の権力は盤石に思えたが、この頃から、成人した実朝が政治力を持つようになる。たとえば、実朝が朝廷から右大臣を打診されたとき、義時は「若いうちに父・頼朝を超える高官に就くべきではない」と釘を刺したが、実朝は黙殺。1218年に実朝は内大臣から右大臣へのぼり、翌年正月、お礼のために鶴岡八幡宮に参拝する。ところが社殿を出て階段を下りはじめたとき、飛び出してきた男が実朝の剣を捧げ持つ源仲章〈みなもとのなかあきら〉を斬り捨て、さらに実朝を殺害したのである。

犯人は、頼家の子・公暁〈こうきょう〉だった。彼は「父の頼家を陥れたのは実朝だ」と恨み、単独で犯行におよんだという。ただ、昔からこの事件には黒幕説がある。

その一人が義時だ。太刀を捧げ持った仲章は公暁に斬殺されたが、直前までその役をつとめていたのは義時だった。ただ、体調が悪いと言い、仲章と交代してもらったのだ。つまり、「危うく自分も殺されるところだった」という演出ではないかというのである。義時の動機は、政治力を持ち始めた実朝が邪魔になったというもの。

もう一人、怪しいのが三浦義村だ。三浦氏は、北条氏に次ぐ力を持つ一族。義村が公暁の乳母父〈めのとぶ〉だったこともあり、二人は親密な関係だった。しかも実朝を討った後、公暁は義村の屋敷に使いを送り「私を将軍にせよ」と言づけている。ところが義村は、軍勢を出して公暁を殺害。義時が生きていることを知ったので、事が露見しないよう公暁の口を封じたのではないかという。もちろん義村の狙いは、自分が義時に取って代わることだった。大河ドラマでは、この事件をどう描くのか――?

事件から2年後の1221年、承久〈じょうきゅう〉の乱が勃発する。

実朝が死んで幕府は弱体化したとみたのか、朝廷の実力者・後鳥羽上皇は、義時の追討令を出した。幕府ではなく、実力者の義時を標的にしたのは、幕府の内部分裂を狙ったのだろう。

当時の武士は、天皇や上皇を神のようにあがめていたので、命令が出ると、西国の武士だけでなく、大江広元の嫡男や三浦義村の弟など、在京の御家人もみな上皇方についた。

鎌倉に知らせが届くと、多くが弱気になり、「上皇の軍勢が攻めてきたら、箱根や足柄で迎え討とう」という迎撃論が多数を占めた。しかし大江広元は「時を移せば、味方の結束は弱まる。運を天に任せて出撃すべきだ」と主張。迷った政子は陰陽師(占い師)を呼んで占わせ、「出撃すべきだ」という結果が出たため、主な御家人を集め頼朝の厚恩を説き、御家人たちに出馬を求めた。演説に感激した御家人たちは、ようやく出発していった。

ただ、義時は非常に弱気になっており、自宅に雷が落ちて一人死亡したとき、「滅亡の前兆ではないか」と口走る。これを聞いた広元は「奥州平定のときも鎌倉殿の屋敷に雷が落ちましたが、無事、勝利できました。ですからむしろ吉兆です」と励ましたという。

結局、戦いは幕府軍の圧勝に終わった。すると義時は「今は何も思うことはない。満足だ。私の果報は、王の果報に勝っていたのだ」と述べたという。何とも現金なものだ。

こうして後鳥羽を始め三上皇は配流となり、朝廷を監視し西国を統轄する六波羅探題が京都に置かれ、朝廷側の貴族や武士から没収した3000ヵ所の土地(主に西国)に御家人が地頭として入った。このように義時の時代に鎌倉幕府は全国政権になったともいえるのだ。ただ、それから3年後、義時は急死してしまう。一説には、後妻の伊賀の方に毒殺されたという。このように、常に義時の周りには黒い影が渦巻いていたのである。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院終了後、日本史講師として教鞭を執るかたわら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『世界一受けたい授業』『歴史探偵』出演のほか、著書に『徳川15代将軍解体新書』(ポプラ社)、『江戸500藩全解剖一関ヶ原の戦いから徳川幕府、そして廃藩置県まで』(朝日新書)など。

(ノジュール2022年9月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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